So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

正夢 [霊的存在]

今回は近況報告です。
今月から講師として勤めている学校は東京の西の山の上にあります。
校舎の5階から外を眺めると、なんと、今年1月に見た「初夢」の中で屋上から見た風景にそっくりなのです。
正夢あるいは予知夢だったのでしょうか。

仕事はというと、とにかく雑用で忙しくて、非常勤講師の身でありながら、今月に入ってから満足に休んだ日がありません。
講師室では提出物のチェックと入力、小テスト及び再テストの作成などに追われ、かなり遅くまで残っていることが多く、帰宅してからも、採点したり予習したりで休まることがありません。
そのせいか、遂に風邪をひいてしまいました。
12月のなれば定期試験が始まり、我々非常勤は楽になるとのことで、それまで何とか乗り切ろうと思っているのですが、これって、もしかしたら4月下旬に占った時の易の卦そのままになっているのかもしれません。

4月の時点で、引き続き教員の仕事をすることに対する易の卦は『澤風大過』でした。
「能力以上のことをする羽目になる」
「でも、やってはいけないのではなくむしろやるべきだ」
直後に調べた資料では、たしかこんな意味だったと思います。

先週、中国人の友人に、
「我突然變得很忙。我累了。」
とメールを送ると、
「加油」
と返って来ただけですが、今日、
「我感冒了」
と送ると、
「吃藥了嗎」
「多喝水」
「多休息」
「工作和媽媽累了吧」
と反応に富んだ返信があり、私も、
「當然我吃藥了」
「但是我不會好轉的」
「周六和周日仍然公作」
と返しました。
私の中国語は、翻訳機を利用しながら作ったものなので怪しいのですが、だいたい意味は分かると思います。

易にしても正夢にしても、それから、「虫の知らせ」にしても、元来人間には予知能力が備わっているのではないかと思います。


哲学・思想ランキング

宗教ランキング

芸術・人文ランキング
nice!(0)  コメント(0) 

盲信者と唯物論者への見切り [中庸]

以前、父がよく念を押すように言っていました。
「そういう人は、いくら言ってもダメなんだよ」
それは、霊的な存在であることを自覚させようと(菩提心を起こさせようと)、その切っ掛けとなる話をしても、まったく入っていかずに拒絶する人、特に唯物論者のことを言っているのでしょう。
私は当初、
「そんなことはない、きちんと話せばわかるはずだ」
と思っていました。
ところが、恥ずかしながら最近になってようやくその原理がわかりました。
原理的にダメな人がいるということです。
(ある著名な作家が「『話せばわかる』は大ウソ」と言っていましたが、このことでしょうか)
このことは、盲信者にも共通することなのでまとめて言います。
言って何とかなる盲信者と言ってもダメ(無駄)な盲信者がいます。
同様に、言って何とかなる唯物論者と言ってもダメ(無駄)な唯物論者がいます。
何れもダメな方というのは、考える力がないのではなく、考える気がないのです。
少し強い言い方をすると、「考えない気」が充分あるのです。
言い方を変えれば、「相手が何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」なのです。
思考回路が「どこに属し、どこを排除するか」あるいは「誰を立てて、誰を攻撃するか」になっているのです。
ここで早々と断言しますが、ハッキリ言って、「権威」や「権力」だけです。

権威や権力のある人の言うことは無条件で聞くけれども、理解できずに鵜呑みにして、鸚鵡のように再生するだけです。
権威や権力のない人の言うことには、一切聞く耳を持ちません。
一切の思考を「力」に委ねてしまっているということです。
逆に言えば、同じ盲信者や唯物論者でも可能性のある人は、相手の身分や肩書によらず、「聞く耳を持つ」という人です。
それはとりもなおさず「理性を保つ」ということです。

〔*話は逸れますが、最近話題のベーシック・インカムの導入に対して、日本では反対者が賛成者の約2倍います。これは、よく言われる「日本人は権威に弱い」ということや、「プライドは余計なもの」と言って自尊心と一緒に「尊厳(魂)」まで捨ててしまうことや、日本に本当の意味で哲学や宗教が根付かないことなどと無縁ではないような気がします。〕

ともかく、私の周りには、ごくごく身近にどうにもならない盲信者と唯物論者がいるので、紹介します。

〔⁑その盲信者は長年話してきて、今になって私の言うことは、結局何も聞いていなかったんだと判ったのです(他で相手にされず、話し相手として私を選んだだけのようです)〕

たとえば、例のキリスト教会の盲信者が他の宗教に理解を示さず異端扱いするのを聞いて、私がそれを指摘すると、
「キリスト教を嫌っているのがわかる」
「でも迫害されることを誇りとする」
などと、「良きクリスチャン」気取りでさらに思考停止(悪しき聖職者)を露呈するのです。(本質と末端の表現の関係をまったく理解できません)
こちらはなにも、キリスト教そのものを嫌っているわけでもないし、迫害しているわけでもないのです。(以前から話してわかっているはずなのですが)
理解がなければ無益な争い事、宗教戦争を起こすことになって、平和をもたらさないと言っているだけであり、そうやって信者を家畜にすることで組織の権威を保とうとする教会の欺瞞を指摘しているだけなのです。
私はそれ以来、彼にその話をするのをやめました。

このように、あいにく現在の形骸化した地上組織宗教は「思考停止した人の唯一の逃げ場」となってしまいました。
逃げて辿り着くだけならよいのですが、その場所が広くて名が通っていて居心地が良かったりすると、変に自信を取り戻した盲信者が、今度はその場所から、他の逃げ場に居る人や逃げ場を持たない人に攻撃を仕掛けてくるのだから始末が悪いのです。
まさに「虎の威を借りる狐」であり、その狐が「張り子の虎」となって虚勢を張るのですから、滑稽としか言いようがありません。
また、その権威ある虎も今や剥製の虎と言ってよいでしょう。
〔⁂実を言うと、私としては、そのことにおいて「唯物論者」と言を一にしなければならないのが何よりも辛いのです。〕

しかしここで肝心なことは、その虎が剥製や張り子だからどうだというのではなく、権威を借りて自分は責任を持たないということが「道」ではないということです。
そもそも権威とか権力を「超越する」ことが聖人たちの教えであり宗教の目的であるのに、盲信者たちは明らかに聖人たちが後世の人にやってもらいたくないことをわざわざやっているわけで、まるっきり宗教の目的から外れているのです。
しかも、盲信者自身は権威を借りていることにも気付かなくなっているというオマケ付きです。
そのことは以前にも取り上げた『論語』の、
「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」(務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣)
にも記されているように、地上での実践を疎かにしてすべてを霊人に託してしまうと、自分のすることが神様のすることにように感じてしまい、自分も周りの人も人間であることを忘れてしまうのです。
〔⋆スピリチュアリズムでは、その手の盲信者のように理性を捨てると、低級霊に乗っ取られる危険性があると注意します〕

繰り返しますが、言っても無駄な人はなぜ言っても無駄なのかといいますと、思考形式が完全に、「何を言ったかではなく誰が言ったか」になっていて、「権威」がすべてだからです。
私のような者には地上的な権威がありません。(というより無用です)
相手が「聞く耳を持たない」のですから、飼い馴らされた犬に、野良猫になるよう説得するようなものです。
結果、その手の盲信者は、たいがいは周囲から相手にされなくなるか見下されるかであり、さらにまた権威にしがみつくという悪循環に陥るわけです。
それでもなお、頭の中は、他人から見下されてきたお返しに、優位に立って他人を見下したいという欲求でいっぱいなのです。

それでは、唯物論者は?
「死んだら何もないんだから」
と言って、エゴのために平気で嘘をつく極めて身近な唯物論者に、
「じゃあ、何で生まれてきたの?」
と問い掛けると、一瞬表情が固まって考えようとしますが、答えられずに、次の機会には、
「どっかの教祖の受け売りをして」
とか、
「死んだ父親にそっくりね」
と言い放って、まるっきり元に戻ってしまいます。(何十年も身近にいるのに私を知らない?)
要するに、子供の頃からの自発的な菩提心がなく、それを掘り起こそうとする人には、単なる地上的な様式(性格)として片づけてしまいます。
私は、
「どこの教祖がどうであろうと、誰に似ていようと、霊的進化をするために生まれてきたんだよ」
と、念を押して、それ以来話すのをやめました。

言わなくてもわかると思いますが、現在の地上宗教の盲信者と同じ構造です。
唯物論者の中にも、高級な唯物論者と、言って解る唯物論者と、言っても無駄な唯物論者がいます。

高級な唯物論者は、単に方法論として物質の面から充実を図るだけで、すでに信仰心は備わっています。
言って解る唯物論者は、哲学(省察)の切っ掛けがないだけで、充分に道を得る可能性があります。

言っても無駄な唯物論者というのは、言っても無駄な盲信者の場合と同じ理由で、劣等感を優越感に変換するために地上の権威に思考を託すわけです。
つまり「権力」や「財力」がすべてです。
かくして、地上の永住者となります。
世間で言われている唯物論は、「ベリアル教」という霊的なものを否定する一つのエセ宗教でもあります。
そして、言っても無駄な唯物論者というのは、言っても無駄な「ベリアル教」の盲信者と言うことができます。

そんなことを言う私でも、
「言っても無駄なんて、諦めちゃダメじゃないか!」
と逆に非難されることもあるのは事実です。
しかし、理性による信仰を広める人たちにとって、そのように理性の限界を知るのも「道」のうちです。(歴史上の聖人はみな知っていたようです)

私を含めて、本物のスピリチュアリズムを普及しようとする者は、そこを弁えて行動すれば、その手の人間を相手に思うように成果が得られなくても失望したり自分を責めたりする必要がなくなります。
それでも、「誰でも話せばわかる」と勇ましく立ち向かう人は、100パーセントどこかで失望するでしょう。
そのとき、原理を知ると知らないでは失望の度合いがあまりにも違うのです。

なにか消極的で覇気がないと思われるでしょうが、これは動かしがたい原理なので、心ある人は永遠に悩み続けたり、変に失望して活動を停止することのないように願うばかりです。
それよりも無駄な時間と労力を温存して、それ以外の可能性のある(聞く耳を持つ)人たちに希望を見出せばそれで充分だと思います。

「いやあ、この地球人類は思った以上に、いや絶望的に霊的に病んでるなぁ」
まるで自分が異星人になったような言い方ですが、率直な感覚です。



宗教ランキング

哲学・思想ランキング

新興宗教ランキング
nice!(0)  コメント(4) 

「聞く耳を持つ」の真意 [中庸]

ある浄土系の人の喩えでは、
『ある石を徹底的に磨いたが、宝石にはならなかった。それは、単に原石が宝石ではなかったから。ダイヤモンドやルビーの原石を磨いて、はじめて宝石になる。』
自力は三乗、他力は六乗。
善行や勤行などの自力で救われるのは限られた者だと言います。

ならば、宝石の原石ではないと思われる石は、ただ神や阿弥陀仏を信じれば救われるというのでしょうか?
人間の計らいでは神や仏の世界に入れないからと言って、ただ神や仏を賛美したり拝していれば神や仏が降りてくるというのでしょうか?
スピリチュアリズムではそれはありません。
それに、宝石の原石は限られた者であって、なれない者はどうやってもなれないというのも疑わしいのです。(ある意味ではそのとおりですけど)

そもそも宝石の原石とはどういう人なのでしょうか?
ひと言で言えば、「聞く耳を持つ人」のことです。
「えっ?」
と思うかもしれません。
私がいつも言う、理性によって神や仏の光を受けていることを知る人のことです。

順番を間違えないように願います。
浄土系においては、あくまで信不退であって、行不退ではありません。
「信(深信)」があって初めて「行(利他業)」が効いてくるのです。
中には、
「そうは言っても、深信なんて、それはもともと宝石の原石の為せる業であって、自分は所詮普通の石ころだから無理だ」
とはじめから自分に限界を作る人がいるかもしれませんが、それは早すぎます。
聞く耳さえあればできます。
その「聞く耳がある」ということが宝石の原石の証しだからです。

聖書にも、所々に「聞く耳を持つ者は」というイエスの言葉が記されています。
もちろん、聞く耳を持たない者もいます。
「聞く耳」とは何か?
イエスなどの聖人や預言者の言うことを鵜呑みにすることではけっしてありません。
イエスなどの聖人や預言者の言うことを切っ掛けに、自分の理性で実践することです。
乱暴な言い方をすれば、
「私の言うことを真に受けるな」
というあたかも自己矛盾のような教えに応えることです。
(シルバーバーチも「納得できなければどうぞ拒絶してください」と言っています)

それもあって、聖書などでは内容が象徴で書かれています。
それは実践する人でなければわからないようになっています。
「立派な土の上に蒔かれたもの、これはみ言葉を聞いて、その意味を悟る人のことです」〔マタイによる福音書より〕
聞く耳を持つというのは、『自分で悟ること』なのです。
その効果はともかく、無駄に盲信者を蔓延らせないために象徴で書かれているのです。
「持っていない人、その人はさらに持っているものさえ取り去られるのです」〔マタイによる福音書より〕

しかし、そのように言うと、理性を捨てた盲信者は、
「そのように分析しちゃだめだよ」
と、見下すように鼻で笑って言います。
内容がわからないことを逆手にとって、「一行一句も変えてはいけない」と聖書を聖遺物として戴くことで自己防御を計るだけなのです。(盲信者については次回にします)


宗教ランキング
nice!(0)  コメント(0) 

神仏の光 [中庸]

今回は再び深くて重い話になりますが、お付き合いください。

「人に為に生きる」
よく聞くことですが、ある人がこんなことを言うと、
「本気で言っているのかなあ?」
と疑う人も多いと思います。
たとえば、この間亡くなった著名な医師が言えば、
「財も名声も得たことによる驕りではないか?」
と取るかもしれないし、
私のようなニコヨン風情の者が言えば、
「社会的成功が叶わないことによる代わりの希望的逃亡だ」
などと言われるかもしれません。
私も今年に入ってから、身の上のことで心細くなって、そうかもしれないと思うこともありました。
しかし、そうではないと確信します。
真の利他愛があると確信します。
なぜなら一つには、私は幼少の頃から、本当に見返りなしに他人に施す人たちに囲まれて育ってきたからです。
その経験が揺るぎない事実だからか、最近になって強く思い返すようになりました。
もう一つは、いつも言う「省察」によって体感できるからです。

過去にも取り上げたと思いますが、
「人間の他人に対する施しも、すべて施す人の欲求を満たすためだ」
と言う人が周囲にいることでしょう。
私も子供の頃にそう思っていましたし、若い頃はそれで悩んでいました。
まあ、ひとまずそのとおりだと言えます。
「情けは他人の為ならず、自己の道徳心を満たすためなり」
どんな事情があろうと、すべての行為は最終的には本人の意思で決めるのですから、論駁は出ません。
有名な『一休が乞食に衣を差し出した話』もそうですし、荀子の『性悪説』でもそれを説いています。〈*〉

みな「第一の絶望」に陥っているのですが、それを認めることが第一歩です。
(荀子の言う性悪説を理解する)【①機の深信】
もし認めないと、もっと深い「第二の絶望」に陥ります。
(孟子の言う性善説を理解できずにはき違えて地上的な小善を極める方に走ります)
エゴのフィルターを通して見ているわけですから、悪を前提として善をとらえることから逃れられません。
世の人の言う善はすべて偽善と受け取れます。【①】
すべては偽善だと知ると、自らの利他業に対して自信を失うのは当然です。
このままなら、悪人正機をはき違えて悪行に走る人を責めることさえできません。

ここで、ちょっとだけ冷静になってほしいのです。
逆に、悪を悪として意識できるということは、初めから善があるからだとも言えるのではないでしょうか?
エゴをエゴとして意識できるのは、初めから「他人への施し」(利他)が人間に備わっているからにほかならないでしょう。
たとえ偽善行為であっても、他者への施しが出来るのは人間だからであり、動物にはありません。〈⁑〉

つまり人間には「仏性」が備わっているのであり、いつでも「神仏の光」を受けているのです。
「悪・善(偽善)」の直線全体が「神仏」の地上における表現です。【②法の深信】
これを知ることが真の「善」であり、肝腎、いや、すべてと言っていいと思うのです。

親鸞聖人の教えではそれらをまとめてこのように言います。(表現は一部私が決めました)
「もう自分はどう足掻いても救われないんだと諦めた(覚った)ときに救われる」
でも、これはあまりにも言葉が足りなくて、よくわからないと思います。
具体的にどういう実践をすればいいかが示されていないからです。
「諦める」とは「明らかにする」ということで、たしかにこれは「第一の絶望」を認め、「第二の絶望」に陥らないところまでは来ているのですが、【①】それだけでは「救われる」までは至らないと思います。【②?】
もちろん、この時点で神や仏に縋るのは道ではありません。
活動が必要です。
活動とは、くどいほど言ってきた即非、絶対矛盾的自己同一、中庸であり、それによる「性悪説」と「性善説」の本当の意味での理解です。
「考える」という理性の活動です。

法然上人も親鸞聖人も「信不退」であって、けっして「行不退」ではないと言うのですが、「信(深信)」というのがまさに「考える実践」であり、「行(雑行)」は末端の小善のことです。
信じるというのは、けっして思考を預けることではありません。

「悪・善(偽善)」の直線を極めるのではなく、【①】直線全体を超越することです。【②】
たとえば、他人への施しは、大金を寄付するなど度合いを強めればよいのではなく、荷物を持ってあげるなど些細なことでもよいから、この原理を知った上で自信を持ってすることが肝心なのです。
とは言っても、原理を知って他人へ施しても、エゴは消えるわけではありません。
肉体を持っている限りエゴは消えません。(エゴとは直線全体)
利他業をしているときでも、頭のどこかに「見返り」や「自己満足」があることでしょう。
それでもいいのです。〈⁂〉
動機がエゴ(エゴイズム)でなければいいと思います。

スピリチュアリズムにおける地上生活の目的は「エゴの克服」ですが、エゴを克服するとはエゴを消すことではなく超越することです。
超越するとは、理性によって神仏の光を受けていることを知ることに他なりません。
理性を「地上の計らい」として切り捨てる盲信者がよくやることですが、エゴを消そうとして消えないからと言って、神に罪を肩代わりしてもらおうとただ神に祈ることは間違いです。



*ただ、(推測にすぎませんが)荀子の場合は、世の人々があまりにも『性善説』をはき違えて、一方的に地上的に善行を極める方に走り迷い込んでいる(第二の絶望)のを見かねて、説いたのだと思います。

⁑動物には知性がなく計らいもありません。動物は悪も善(偽善)もなく、共生や自己犠牲はあるにせよ、それはただ生存や種の保存の都合だけです。

⁂たとえば、「情(情愛)」は愛から派生するものであり、エゴの尽きない人間の地上における末端の表現だと言えます。「情(情愛)」を愛ではないと言って無下に切り捨てる必要はないはずです。


哲学・思想ランキング

宗教ランキング
nice!(0)  コメント(0) 

虫の知らせ(新) [霊的存在]

夜、食事で離れている間に携帯電話に元同僚のmさんからの着信があったので、こちらからかけてみると、
「実は悲しい知らせなんだけど、Mさんが亡くなったんだよ」
「息子さんから連絡があってね」

Mさんというのは、私が専任教師時代にお世話になった先輩の先生で、このブログの4月に書いた『財産とは』の登場人物「M親分」のことです。
定年退職して約2年、年金だけになって、低収入生活に慣れないせいか苦労していたようでした。
それにしても、私はまったく予期していないことだったので、ただ驚くばかりです。
たしかに6月頃からまったく連絡が来なくなったので、どうしたのかと思っていました。
どうもその頃に心臓の具合が悪くなって、入院しようかどうしようかと迷っていて、mさんらに相談していたらしいのです。
入院してからは状態が芳しくなく、本人も弱気になっていて、8月頃にはもう人と連絡を取りたがらなかったようでした。
亡くなったのは、9月8日。
私が前回書いた『面接』の前日です。
前回も書きましたが、面接の日の前後は何かに操られているようで嫌な感じでした。
どうもそれかもしれません。

なぜ私がこのようなことを取り上げるかというと、どう考えても深い縁があるとしか思えないからです。
私が専任教師を辞めてから、M親分とは年賀状のやり取りはあったものの、17年間会っていなかったのです。
電話もメールもしませんでした。
今年の2月に久しぶりに会って、4月に二度会いました。
その後は携帯電話で何度か話し、5月の終わりに連絡が来て、
「ハセさん、就職の方どう?」
「まったくダメ」
それが最後となりました。

「17年振りに会ったと思ったら亡くなった」
まさに「虫の知らせ」としか思えません。
「虫の知らせ」に関しては、私の2作目の著書に記しましたが、退職した先輩の先生2人と同級生1人、とても考えられない場所でバッタリ遇ったと思ったら、その後すぐに亡くなっているのです。
何れも深い縁があり、何らかのメッセージを残したのかもしれません。

4月の頭にM親分と会った時、別れ際に市川の駅ビルで、「お母さんに」と言って、お菓子を買ってくれました。
それから、どういうことか、にわかに少し顔を曇らせ、ややうつむき加減に静かに私に告げたのです。
「お母さん(を)大切にした方がいいよ」
それが何のメッセージだったのか未だに不明ですが、自動的に介護離職しているので、言うことを守っています。

心残りなのは、M親分が、
「ハセさんの就職が決まったら、またパーティーやるからな」
と言ってくれたのに出来なくなったことと、親分に真っ先にリクエストされて歌えなかった唄(レパートリー外のため)があって、その後その唄を練習したにもかかわらず披露できなかったことです。
産休代替とはいえ、私もやっと職を得たのですから、生きていてほしかったと思います。

袖すれ合うも他生の縁。
今生だけでなく永遠のものです。
私はこれからもそういうつもりで他人と接しようと思います。


nice!(0)  コメント(2) 

面接(2)

今月の2日に、今年度3回目の面接に行きました。
この求人は、7月にネットに出た11月からの非常勤講師です。
どうして11月からなのか事情が分からなかったのと、場所が遠いのと、あまり学力が高くなさそうなので、はじめは無視していたのですが、他が当てにならないので、先月の途中に、まだ有効か電話で確認して、履歴書を送りました。

9月の頭が書類の期限なので、返事が来るだろうと構えていたら、そのとおり電話がありました。
「面接に来てください。あと、模擬授業をやってもらいます」
とのこと。
こんな長く引っ張って、さぞかし応募者がたくさんいるだろうから、まず書類は通らないだろうと思っていたのですが、意外でした。
それとも、敬遠されるだけの理由があるのかと、不安にもなりました。

そう言っても、8月に出た急募(在職したことのある学校)も、締め切られまいと、直接出向いて書類を届けたにもかかわらず、あっさり書類落ちしましたし、今回が駄目なら今年度は終わりなので、迷っている余地などないのが実情です。
言われるまま、書類を揃えて、JRと京王線とバスで約1時間半、途中の食事を入れて2時間余りで辿り着きました。
早く着いてしまったことを告げ、事務室前の長椅子に座って待っていると、まもなく教頭先生が現れて私は教科室に連れて行かれました。
模擬授業のための用紙を渡され、課題(問題)2題を説明の下書きとして解いて待っていました。

① 中学生に対する「2の0乗=1」の説明
② 2次関数を用いた2次方程式の問題

いずれも自分の得意な内容なので、「もう採用は決まったも同然だな」と安堵の気持ちで満たされ、部屋の周囲を眺めながら、11月まで何をして過ごそうかなどと思いを巡らせ、余裕で構えていました。

10分ほど経って、校長と教頭と教科主任が来て挨拶した後、早速面接が始まりました。
そのときにはじめて産休代替であることを知らされました。
ということは、基本的に来年の3月で終わり。
どうりで、書類が通ったのはそのためでしょう。
面接そのものは、
「たいへん失礼ですけど、どうして平成12年に退職したのですか?」
「学力が低下してまったく授業が成り立たなくなったんです。他にいろいろやりたいこともありましたし、思い切って・・・」
など、月並みな質問に月並みな答え。
ということで、詳しいことは省略します。

そして模擬授業。
唐突に教科主任が、
「どっちにしますか?」
予期せぬことを聞くので、全部やるつもりでいた私は戸惑い返答に詰まると、教科主任がすかさず、
「じゃあ②番!」
本当は①番のほうが自分の特長を活かせるのですが、それを言う暇もなく、私は促されるまま始めました。
今までいた学校の癖が残っていて、スピーディーに進めました。
途中で、紙に下書きしたものに間違いがあることに気づき、それを正しながら無事に説明を終えました。
ところが、どうしたことか、3人の先生方は下を向いたまま何の反応も示しません。
「終わりです」
私が明るく言うと、先生方は一拍おいてから、
「それではお座りください」
と言って、再び面接の形となり、校長から、やや形式的な口調で採用された時の注意事項を言い渡され、
「来週の月曜日(2日後)には結果をお伝えします」
と言われて終わりました。

「採用されるときはいつもその場で言われるんだけどなあ」
「こりゃ、何かまずいことをしたかな?」
「もっと声を張り上げてやるべきだったのか?」
「そういえば『内容ではなく、雰囲気を確かめるだけですから』って事前に言われたっけ」
「そうは言っても、こんな狭い部屋で、しかもすぐ目の前に先生方が座ってるし」
動揺を隠せない私は、テーブルにあったグラスに入った飲みかけの冷たいお茶を飲み干そうとして失敗し、再びテーブルに置いたときに倒してこぼしてしまいました。
「ああいいです、あとでやっておきますから」
と言われ、退出しました。
まるで狐につままれたような、何かに操られているような感じでした。

その後、帰宅してからもずっと嫌な感じで過ごしました。
この際月曜日になったら、連絡が来る前にハローワークに行って4年前のように職業訓練の説明を受けようかと思っていました。
ところが、月曜日の朝9時頃に電話があり、「採用」でした。
ひとまず安心しましたが、そこにずっといる可能性は極めて低く、変な法律ができたおかげで、講師を続ける限り常に新たに口を探さなければならないのです。
私の場合は、そろそろ見切りをつけて、一生できる仕事を始める必要があります。
結局のところ、問題を先送りしているだけです。
しかし、これも課題克服のためのプロセスであり、高次元の存在の計らいと受け止めています。


nice!(0)  コメント(0) 

神から祝福? [霊的存在]

神社にお参りするなら各月の1日と15日、特に1,5,9月が良いとのことで、9月1日に行ってきました。
と言っても、今の私は自動介護離職の身、伊勢に行くわけにはいかず、明治神宮も午前中はきびしいので、地元の小岩神社へ。
11時過に着いて、鳥居の前で一礼、その後、一通りの決まり事を済ませて、五百円硬貨を入れて二礼二拍手。
住所と名前を言ってから、いつものように、
「すべての人が幸福でありますように」
と願い事を唱えました。(ホント?)
その後、脇にある稲荷神社や水神社などをお参りして、帰り際に社務所で百円のおみくじを買いました。

運勢は吉(ここは吉や大吉が多く凶がほとんどない。浅草寺は凶ばっかり。)
就職は「分に応じて良し」
その他、身体の健康を保て
偕老同穴?(伴侶がないのに?)

その場で読んで木の枝に結びました。
やることを終えたので、すぐ去ろうとしたのですが、空から蝶が一匹舞い降りてきて足元の地面に停まり、私も足を止めました。
「これも何かの知らせなのかな」
と思い、逃げないうちに撮影しました。
はじめ、「ヒメアカタテハ」かなと思ったのですが、どうも昆虫少年の記憶の中に「捕獲した感触」がないのです。
あとで調べたら、「ツマグロヒョウモン」でした。

tsumaguro.jpg

鳥居を出てから、来た道と反対方向へ歩き、思い付いたかのように空に向かって、先に逝った縁のある人たち(父、親戚、近所の人、若くして亡くなった同級生3人)に、今の私のうらぶれた身を報告しました。
そして、人生の意味を問い掛けました。
すべてが成就しないと言っていい私は、差し当たり何をしたらいいのかさえまったく分からない状態だからです。
親の世話はともかく、時折周囲の人たちの頼みごとを快く引き受けたり、損得抜きで著作やブログで責務を果たしているつもりでいるものの、世間の人たちは、
「坊ちゃん育ちでお人好しの酔狂」
ぐらいにしか思っていないのかもしれませんし。
少なくとも、「必要のない人間」の扱いを受けていることは確かです。
あと何年生きるかわかりませんが、このまま老いて無事に天国へ行けたとしても、果たしてそれでいいのか悩むばかりです。
人生とは「何をするか」だからです。

とりあえずここで、今年の1月にあった出来事を紹介します。
古い友人の家にお邪魔していると、友人の知り合いの人から連絡があり合流しました。
頭は禿げていて見掛けは60代ですが一つ年上の鹿児島出身の男性です。
私も17年前から知っています。

その人が私に言うのです。
「あなたは神から祝福されている!」
繰り返し、念を押すように、
「あなたは神から祝福されている!」
私の人格と地道な活動を知ってのことでしょうが、その人は何かのメッセージを届けに表れたとしか思えないような、まるで仙人のような不思議な雰囲気を持っているのです。
以前私が、
「僕の故郷はどうやらプレアデスのようです」
と軽く言うと、
「俺はオリオンだ」
とサラリと返したのです。

ともあれ、私が、
「まあ、これからも(責務に)励みますよッ!」
と言うと、その人は慌てて打ち消すように、
「励まなくていいッ」
「そのままでいいッ」
「もう少しの辛抱だッ!」
と言いました。
相手が宇宙人だという先入観からか、すべてを見透かされたようでした。
まあ、落語の『蒟蒻問答』みたいなものかもしれませんが。


宗教ランキング
nice!(0)  コメント(3) 

望みは中国 [中庸]

私はかなり若いころから中国には興味があり、中国茶や中国酒、そして中国料理を嗜んできました。(高校で漢文を習う前から、繁体字を覚えていてほとんど書けました)
高校時代の友人たちが、中国かぶれした私を見て、名前を「長光郎」と中国風に変えた方がいいんじゃないかと、からかったほどです。
今も、割りと安くて旨い中国料理店や美味い中国茶を置いてある店を見つけはわざわざ足を運びます。
9年前には、中国整体の専門学校に1年通って、「綜合中医療法師」なる民間の資格を取り、半年ほどプロの整体師をやっていました。
今は専ら母親に施すだけですが。
また、改名の時の縁で、易を勉強して今でもたまに易占します。

そんなわけで、振り返ってみれば、私の身体も精神も中国文化で満たされているのです。
もちろん、整体やマッサージが縁で、中国人と交流が頻繁にあります。
そうすると当然みなさんは疑問に思うはずです。
「中国語はどうなの?」
そうです、中国語には興味がないのかと言われて当然です。
実を言うと、もともと私は話し言葉にはあまり興味がなかったのです。
日本語でさえそうです。
「考えることが少なければ少ないほどよく喋る」
という諺に賛同してか否か、「無口」で通しているくらいですから。

ところが、あることが切っ掛けで必要性を感じて、2か月前から独学で中国語の勉強を始めました。
CD付きの教材と知人の中国人との会話で細々と練習しています。
HSKなどの検定はともかく、中国人と不自由なく日常会話ができたらと思ったわけです。
「あること」とは何か、実は半年前、1月の下旬だったか、ある夢を見たのです。

『私はどこか田舎の方のある駅のホームに立って、列車を待っていました。やがて丸みを帯びた濃紺の特急列車が入ってきたので、停まる前になるべく先頭の車両に乗ろうとホームの先端近くへ走っていきました。ところがよく見ると先頭の車両に出入り口がありません。私はあわてて2両目の方へ戻ろうとしましたが、その出入口は人で溢れ、私が入る余地はありませんでした。そうしているうちにドアが閉まって発車してしまいました。列車が行ってしまった後に、どこからともなく女性の声が聞こえてきました。「望みは中国」(夢はそこで終わりました)』

まあ、日本社会に失望した私の心中の反映なのでしょう。
私が何年か後に中国へ行くかどうかは成り行き次第です。
ただ、私が中国に希望の光を見るのには理由があって、私が見る限り中国には日本から消えた「灰色」や「家庭(プライベート)優先」、そして「信仰心」がまだあるからです。
信仰心?
皆さんの中には、中国人は「唯物主義」だと思っている方がいるかもしれません。
たしかに、即物的な印象を受けるかもしれません。
中には商売っ気が先立って、たくましいというよりはエゲツナイ人もいます。
ただ、「物質がすべて」とか「カネさえあれば」とか「死んだら終わり」というような思想ではなさそうです。

今年の4月頃だったか、以前お世話になった近くに住む同年代の中国人の女性整体師に商店街でバッタリ会った時に、職を失った私の事情を伝えたところ、
「まずは、身体をしっかり保ってね」
と忠告されました。
つまり、どんな状況であっても身体の健康を計れということです。
何をするにも健全な肉体が基本だというのです。
これは肉体がすべてだとか、肉体さえ健康であればよいというわけではありません。
「健全な肉体には健全な魂が宿る」(逆に健全な魂は健全な肉体を作るとも言えます)
という方便としての唯物論です。(高田求氏が唱えた高級な唯物論に似ています)
私はその忠告通り(?)今もこうして良いものを食べて平然と時機を待っているのです。

それに、彼らは、もし十分カネがあって働かなくても遊んで暮らせる状況になっても、何もしないのは良くないと言っています。
つまり、常に「社会奉仕」の理念があるのです。
そういう意味で信仰心があると言えます。
中国が、今の日本のごとく「こんな状況なら仕事なんかしないで遊んで暮らせたらその方がいい」などと思わせる状態ではないとしたら、行ってみたいという気にはなります。(場所によっては良い所と悪い所があるそうです)

それにしても、中国語は難しいです。〔中文很難〕
果たして私の思惑は如何に。


哲学・思想ランキング
nice!(1)  コメント(0) 

論語より [中庸]

半月前に本屋で買った『心が冴えわたる論語』という小型の本をパラパラめくっていると、特に目に留まる箇所がありました。
それが、
「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」(務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣)
でした。
この本の解説はこうです。
「宗教を信じるのは悪いことではありません。その人の心の支えになるのであれば、すばらしいことです。また神仏を敬うことは人間としての謙虚さも育てます。ですが、その宗教に頼りきって、自分で考えることを忘れると、悲劇が起きてしまいます。自分のすることが神様のすることのように感じてしまい、自分も周りの人も人間であることを忘れてしまうのです。人間としての道を忘れることなく、神仏を敬う。しかし、それに頼りきらずに自分の力で考えるべきときは考える。そのように人間に与えられた知性を活用してこそ、人として生きる道が照らされるのでしょう。」
まさに、本物のスピリチュアリズム(流行りの“スピリチュアル”ではありません)そのものです。
「えっ、でもこれって、解説者がスピリチュアリズム普及会などの人だからじゃないの?」
と一瞬思ったので、念のために検索しました。
2つばかり拾って提示します。

【『中国古典百言百話・論語』・PHP研究所】より
『論語』雍也にある、次のことばが出典です。
樊遅問知。子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣」。
問仁。曰、「仁者先難而後獲。可謂仁矣」。

樊遅(はんち)知を問ふ。
子曰く、「民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)ふ可(べ)し」。
仁を問ふ。
曰く、「仁者は難(かた)きを先にして獲(う)ることを後にす。仁と謂ふ可し」。
〈解説〉
樊遅が知とは何か、と孔子にたずねた。
「われわれは、ややもすれば人間を超えた存在に頼る気を起こしがちだ。
しかし、まず人間としてやらねばならぬことは何かと考えること、それが知だ」
樊遅はさらに仁についてたずねた。
「人間として正しいことは、たとい労多くして功少なしと知っていても、
あえて実践する態度、それが仁なのだ」

知についての孔子の答え、「鬼神を敬してこれを遠ざく」は「敬遠」の語源。
人間はあくまで人間の次元において判断し、行動すること。
他方、鬼神には尊崇の念をもちながらも、あくまで人間を超えた存在として扱うこと。
この二つを截然(せつぜん)と分かつのが知であるという。
樊遅に対するこの答えは、
「その鬼に非ずして之を祭るは、諂ふなり。
義を見て為ざるは、勇無きなり」と照応する。

【ちょんまげ英語日誌】より
漢文
樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。
書き下し文
樊遅(はんち)、知を問う。子曰わく、民の義を務め、鬼神(きしん)を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難(かた)きを先にして獲(と)るを後にす。仁と謂うべし。
英訳文
Pan Chi asked Confucius about wisdom. Confucius replied, “You should fulfill your duty as a human. And you should worship gods but should not rely on gods excessively. It is wisdom.” Pan Chi asked about benevolence. Confucius replied ,”You should do your best for others but should not hope for reward. It is benevolence.”
現代語訳
樊遅(はんち)が “知” とは何かと尋ねました。孔子は、
「人としての義務を果たし、神霊を敬うが決してそれに頼らない、これが “知” というものだ。」
と答えられました。次に “仁” とは何かと尋ね、孔子は、
「人のために尽力して報酬を期待しないこと、これが “仁” というものだ。」

どうでしょう?
孔子はスピリチュアリズムを先取りしていたようです。
盲信者や唯物論者に聞かせてあげたいくらいです。
如何なる時も天から光を受けていることを知ること、霊的自覚、これは省察によって可能です。
また、神仏に思考を託すのではなく、地上では霊的意味で地上経験としてすることがあるということを知ることです。
すなわち霊性を得ることが真の信仰です。
神仏あるいは霊的存在を唯物論者に知らしめることと、盲信者に理性を保たせることは、難しいのですが、私はそれを役目と思っていますし、それこそ上にある「仁」と心得ています。


宗教と戒律 [霊的存在]

先日、
「サウジアラビアで、Tシャツ短パン姿の動画を投稿した女性が逮捕された」
という記事があり、私もコメントに参加しました。
ご存知の通り、イスラム教には「外では女性は姿や顔を隠す」という妙な戒律があります。
もちろん、神がそんなことを指示したわけではありませんが、「要らぬ欲情を煽らない」というどの宗教にもある基本的な姿勢の地上人間の末端の表現であって、それが戒律化したのでしょう。(地球上の人間は外ではたいがい服を着ていますが)
それにしても、これはあまりにも一面的で、本質からかけ離れています。
イスラム教に限らず、聖人の誕生から2千年も経って「末法」となった現代における伝統宗教に対して、世間の人たちがどのようにとらえているか、それがコメントに表れています。
ただ、それを読んで気になる点があるので、少し言わせていただきます。


ある人がこのようにコメントをしました。
「僕はイスラム教徒じゃないけど何故、戒律的にダメなのを知っててやるのかな?自分から騒ぎを起こす必要は無いよね?」
        (返信2),評価:良26 悪20

どうでしょう?
事なかれ主義なのか何なのか、この人は、いずれにしても思考や行動が世の中に対する対処だけで、世の中に働きかけることをしないようです。(でも、賛同する人がこんなにいます)

私はこれに対してこのように返信しました。
『宗教には方便は付きものだけど、この戒律は方便にもなっていないからね。考え直す切っ掛けになっていいかもしれないよ。』
        【評価:良3 悪0】

〔参考までに、もう一人の返信〕
「戒律的に問題があれば意思表示したり、意見を伝えることは必要だと思う。女性は車の運転も不可だったけど行動を起こす人がいたり、権力者の発言もあり認められつつある国もあるし、自分の意思でスカーフをしない人もいる。」
         評価:良7 悪1


次に、このようなコメントが目に留まりました。
「そもそも宗教の必要性がわからない。差別や争いの種でしかない気がする。」
       (返信5)評価:良80 悪18

みなさんどうでしょう?
どうやら、「宗教=形骸化された現代の地上末法組織宗教」ということで話を進めているようです。
そして何より残念なことがこれに対する評価の割合で、前回同様、地上人類の霊的意識の欠如が見事に表れています。
事実、これに対するある人の返信を見ていただきたいのです。
「思考停止した人間の逃げ場ですよ、宗教は。」
           評価:良18 悪3

私の周囲にいる盲信者に関してはまったくその通りなのですが、それを指摘している人たちも、宗教とは何なのか、その本質を考える余地がないようなのです。
その人たちも、「信仰=考えないこと(思考停止)」の域を脱せません。
ほとんどの人が「末端」を見ているからです。
つまり哲学(省察)が欠けているのです。
(これについても評価の割合に表れています。いわゆる霊的人間14%)
私もこれには嘆きました。
私のような人間の活動はいったい何なのか?
言うのも疲れてきました。

この返信に対し、私は手短に、遠回しに、こう返信しました。
「もはや神の教えが届いていません。」
「少なくとも形骸化した現代の地上宗教は、たしかに上の人の言う通りです。」
          【評価:良12 悪0】

どうやら、どちら側の人からも解っていただけたようです。


〔参考までに、他の返信者はこう言っています〕
「宗教がなければ世界の紛争はほとんどないからね。」
        評価:良10 悪4
「もともとは、部族が連合して国家ができる過程において、
各部族で異なるしきたりや常識などをすり合わせ、統一させるために生まれたのが
キリスト教やイスラム教といった世界宗教だと思っている。
なので、今の時代はそぐわないのではなかろうか。」
        評価:良5 悪1
「これだから、乾いてて荒んだ土地で生まれ育った宗教はイヤだねーと思う。日本のように豊かな自然に恵まれると、おおらかな宗教観になる気がする。」
        評価:良2 悪2

もう何が言いたいかおわかりだと思います。
概して地上的です。
もっと霊的な視点を設けてもらいたいものです。

前の10件 | -