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幸福の科学について(3) [中庸]

このところ私は他のことで頭も体もいっぱいで、肝心なスピリチュアルな活動がおろそかになっていることは確かです。
もちろんそれは、かなり少数派でありあまりにも世間から理解されないため、失望しかけているというのもあります。
それに比べると、いつも引き合いに出す宗教団体の人たちはめげることなくよくやっていると感心(?)します。
皮肉なことに今の私にとっては、彼らに対して真摯に向き合ってコメントすることが唯一手応えのある行動となっているわけです。
今回も自分対する刺激として、幸福の科学の例の女性から随分前に頂いた『信仰の法』なる本をパラパラとめくって斜め読みしました。

皆さんはもう、私が何を言おうとしているか、だいたい察しがつくと思います。
はっきり言えば、霊的自覚を促すという点では賛同するものの、その方法としては相容れません。
やはりと言っては失礼ですが、未だに「超常現象」による騙しの域を超えず、「道」を行く切っ掛けを与えてはいないからです。
つまり、唯物論撲滅の活動はしてはいますが、盲信排除にはなっていないということです。
(むしろ盲信を促していると言ってもいいくらいです)

ともあれ賛同する点としては、「『進化論』」は仮説であって真実ではない」という箇所で、

【学校教育の影響もあるのでしょうが、多くの人たちは、「アメーバが人間の先祖であり、そこから進化して人間になった」と考えています。…(中略)…このような、あまりにも論理が飛躍した仮説に飛びつき、考えることを停止した人間を大量につくった国家には、それなりの困難が必ずやってくるはずです。したがって、私たちはそうした国家に立ち向かってくる困難と戦わなければなりません。自分自身の存在根拠を否定し、尊厳を否定した者に、繁栄した未来が来ることを期待するのはおかしいと思います。】

とあることです。
これは、「肉体としての生物の進化によって人間の知性や霊が偶然生まれた」ということに対する批判です。
もっともこれに関しては、どの宗教家も同様に指摘していますが。
宇宙物理学者も「地球外生命」を探すときに、未だに地球と似たような条件の天体に専ら関心を抱くようです。(以前も言いましたが、プロの研究者の制約もあると思います)
しかし、スピリチュアリズムでは、人間の肉体は借り物であり、「人間=人類」ではないのです。
人間の霊は初めからあります。
また、人間に限らず、鉱物も植物もそれなりの霊があってはじめて物質化して活動します。

賛同しない点は、やはり、「イエスの磔刑」の解釈です。

【キリスト教で言うならば、キリスト教は、異教徒の人々から、「自らを救えなかった人間が救世主であることはあり得ない」という批判を受けることがあります。当時、十字架に架かったイエスは人々から嘲笑われました。「ユダヤの王」と札に書かれ、王冠の代わりに茨の冠をかぶせられて、「本当にユダヤの王で救世主であるなら、自分を救ってみよ」という、挑発的で侮辱的な言葉を数多く投げかけられました。しかし、イエスは、現実には、釘で打ち付けられた十字架から逃れ、何かを起こしたわけではありません。実は、そのあとの霊的な復活を通して、人々に魂の永遠性を信じさせたのであり、また、霊的な目覚めを得た弟子たちの前にその姿を現すことによって、真実の世界のあり方と、自分が永遠不滅の存在であることを説いたのです。…(中略)…私が説いている教えの中にある普遍的なるものを、同時代において、同時期において、つかみ取ることができるならば、その人は相当優れた人だろうと思います。しかし現実には、なかなかそうはいかないものなのです。】

まず、「救う」とか「救われる」というのを、「肉体の保持」という意味にしてしまっていることから、当時の民衆の意識の低さが窺えます。(今もそうかも)
それに対して教会側も、後にイエスの磔刑を「身代わり」というように、これまた肉体的唯物論的に取り繕っています。
救うとか救われるというのは、自己保身が動機で地を這うような生き方すなわち「地上の住人」から、エゴを克服し自己保身を超越する(消すわけではない)生き方すなわち「地上の旅人」に引き上げることを言うのです。
イエスの肉体の死を以って他の人たちのエゴが克服されるわけがありません。
イエスは逃れようと思えば逃れられたのですが、それをすれば、自己保身で動いたことになり、エゴを乗り越えたことにはなりません。
自己保身を煽るという権力者の手に乗らずに信念を通したまでです。
それが聖人の聖人たる所以です。
もっとも、イエス本人は純粋に行動しただけでしょうが、それが霊的に生きる人の手本となったわけです。
(私も磔刑ほどではありませんが、かつて幾度か純粋な行動によって、権力者から処分を受けました)
それから、復活という超常現象で驚嘆させるというのは、低級霊が狂信者を騙して面白がる時によくやる手であって、イエスの肉体を借りた高級霊がやるわけがありません。
出来てもやりません。
なぜなら本物ではないからです。
盲信を促すだけで、道を示さないからです。
もしそんなことで人々の霊性を高めることができるのなら、今でもしょっちゅう復活して人々の前に現れればいいはずです。
ならば、大川氏の説く「普遍性」とは、如何なるものなのでしょうか?

この本の最後の方に、「地球神エル・カンターレからのメッセージ」として、こう記されています。

【今、私は、あなた方に言う。キリスト教に言う「主なる神」。ユダヤ教に言う「エローヒム」。イスラム教に言う「アッラー」。中国の孔子が言う「天帝」。さらには、日本神道ではその姿も知られていないが、中心神である天御中主神の上にいる「天御祖神」。すべては同じ存在であり、一人なのです。以下略】

まったくそのとおりなのですが、残念ながら、盲信者や狂信者に対して何ら説得力がありません。
つまり、このメッセージによって人々は何も変わらないのです。
末端の表現に囚われるのは人間の常ですが、省察によって解除する(戒禁取を消す)ことができるはずです。
なのにその具体的な実践法が示されていません。
せめて、
【「アッラー」であるから「エローヒム」ではない、と言うのは、「▲」だから「●」ではないと言っているのと同じだ。】
と言ってほしいものです。

我累了。


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ピアノ演奏 [音楽]

一昨年6月、動画を作る目的もあって、ガラケイからスマホに切り替えました。
その時、早速作ったのがこの動画です。
何とかうまくいきました。

https://photos.app.goo.gl/nlWzuUyNgc0xoxRQ2
【Brahms Op.118-1】2016.6.3


続いてこれです。(少し長いのですが)
この曲はおもに上級者が弾くものとして知られていますが、暗譜はしやすいので。

https://photos.app.goo.gl/75Ct61PtyJX5ACB32
【Debussy Douze Etudes (11)】2016.6.3


4か月後に、友人から要請があって作りました。

https://photos.app.goo.gl/uog47aMmfalHxpxA3
【Scriabin 2mazurukas(1)】
https://photos.app.goo.gl/5Pox87DjLmeNXFgL2
【Scriabin 2mazurukas(2)】

今後、もっと完成度の高い作品をお届けしようと思っています。



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盲信者への対応(3) [霊的存在]

「一年の計は元旦にあり」
と言ってはみたものの、年が明けてから、例年のような鮮明な初夢を見ることもなく、ブログを更新するネタがないままやがて仕事が始まりました。
(その割にはその間のアクセス数が多く、1日に100を超えることもありましたが、これはけっして良いことではないということが『詳しい人』によってわかりました)
以前にも言いましたが、現在私は非常勤ながら土日も予習や問題作りなど雑用に追われ、思索や文化的活動に耽る暇がありません。
ネタと言えば、幸福の科学の女性やエホバの証人の小母さん(2人)が懲りもせず訪問し、私も懲りもせず真面に応対した時のことぐらいです。

先週、夜9時半頃、雑用を半分終えてからブログを更新しようと思ったところ、突然友人から電話があり、なんと4時間近く話してしまい、結局何も捗りませんでした。
友人というのは、専任教師として勤めたときの同期の英語の先生(Nさん)です。
彼は旅行が好きで、今回も暮れから正月にかけて8日間エチオピアに行ってきたということで、その話でかなり時間を費やしました。
その中で、彼に同行したツアーのメンバーの中に、年に5回も海外旅行に行くという人がいて、
「よく出来るなあ、そんなに収入があるのか?」
なんて話になりました。
私は、「それじゃあ、彼(友人)はどうなのか?」と思ったので聞いてみました。
「Nさん、たしか結婚したての頃、『急に貧乏人になったみたいだ』って言ってたけど、最近はなんか余裕があるみたいだよねえ」
それに対して彼は、
「まあ、あれから月十数万昇給したからね」
とあっさり答えました。
そういえば、51歳の別の友人も、バツ2ながら今はマンションに1人暮らしで、一つの会社に長年勤めているためか、
「月に20万は遊びに使っている」
などと言っていました。
どうやら周りの人たちは金銭的にヌカリなく生活しているようです。
なんだか取り残された感じがしますが、思えば大学卒業の頃になっても就職のことなど微塵も考えていなかったこの私が今更思い悩むのは滑稽の極みというものでしょう。
根本的に地上人生における役割が違うのですから。
そのへんのことを絡めて、エホバの証人の小母さんたちとのやり取りを少し紹介します。

今年最初に訪れたときに、私が役割を自覚して世の人々に発信していることを告げました。
ただ、頭ごなしに「愛」だのなんだの言っても、現代人には通じないということ、それを邪魔しているエゴイズムを「内側からの光(省察・理性)」によって消す活動をしているということを言いました。
また、苦難を乗り越えて、熟して幸福になるという類のことを話しました。
最後に、話を短くするために私はこう言ったのです。
「共通して聖人たちの言っていることは、『無垢の獲得』なんです」

2度目に訪れたとき、前回の私の言動を記憶していたのか録音していたのか、またまた聖書が書かれているタブレットを見せて言いました。
「見てください。あなたが聖書に書かれているとおりの人だということがわかります」
見るとそこには、
「霊的自覚をしている」
「純粋である」
「義に生きる」
「穏和である」
「平和を求めている」
などということが書かれていました。
もちろん私のとっては特に驚くに値しません。
仏典、コーラン、フィロン、シルバーバーチ他、どれを読んでも自分の思考や行動とほとんど合致しているので、自信を持つことはあっても、啓蒙されることはありません。
むしろ、もともとの自身の在り方が聖書や仏典の表現となって表れているといった感じなのですから。
なので、様式に違いはあっても本質はみな同じであることと、同時に末端の表現の拙さも判ります。
小母さんたちの言うことには、
『自分の肉体が自分だ』
『死後の世界はない』
『地上で永遠に生きる』
私には「言葉の限界(一面性)」としてそう表現され得る(ある意味、人間は死なないのですから)ことが一応わかりますが、これはどう考えても一般の現代人には受け入れられないでしょう。(それでも布教しようというのが組織宗教の凄いところですが)

ともあれ、エホバの証人の小母さんたちは、聖書を読むにあたって、1人よりも2人あるいは3人いたほうがいいだろうと言って、なんとか一緒に活動しようと勧誘するのです。
内なる光を優先している私は、当然のことながら、
「その必要はありません」
と言いました。
そう言い終わる直前に私の母親が出てきて、
「いったい何なの?まだやってるの?」
と、不機嫌そうな顔で言ったためか、小母さんたちは気まずくなって出て行こうとしました。
私は咄嗟に、
「あのう、うちの母親はこういうのに興味ないんです。気にしないでください」
と言って見届けました。

思うに彼らは聖書によって啓蒙されたのでしょうが、私に言わせれば、聖書を読んだからといって、けっして、霊的自覚をしたり、純粋になったり、義に生きるようになったり、穏和になったり、平和を求めることはありません。
なぜなら、不完全な人間の言葉で表現されているからです。
そこから出発すれば必ずといっていいほど他の様式のものを否定します。
よって、平和をもたらすことはありません。
今年も大変な1年になりそうです。


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盲信者への対応(2) [中庸]

今日の昼前に、エホバの証人の小母さんが再び訪問してきました。
玄関先で、例によって戸を半開きにして、
「この前、地球人類は低い所に居るとおっしゃっていましたけど…」
と切り出し、私も、
「まあ、スピリチュアリズムでは『下から2番目』ということになっていますけどね」
と答えて、立ち話を始めました。
それに関連することとして、儒教や武士道などの地上の道徳が方便として必要なことや、聖書が比喩で書かれている理由などを話しました。
特に「小麦の収穫」の比喩について深く話しました。

〔育てる時は雑草と一緒に育て、刈り取る時に雑草を捨てて小麦だけを集める。布教する時には師や施設や言葉は方便として必要だが、伝わってからは本質だけを見極めて行動する。余計な形式にとらわれない。道を得たら師から離れる。〕
もっともこれに対してその小母さんは異論を唱えていましたが。

しかし結局は、真摯に向き合って考える人、霊的に行動する人は少数派だということで合意しました。

今回の小母さんは、10数年前の小母さんと違って、仏教への批判はありませんでしたが、やはり自分の所が一番、いや、神はエホバのみという布教活動が先決と言わんばかりに、大きなタブレットを持ち出し、「ちょっと失礼」と玄関の中に入って、私に見せました。
そこには聖書の一部が載せられていて、小母さんはある一部を指し示して読みました。
「いろいろな書物を読んでいても読み切れるものではないし疲れてしまう。それよりも神を決めて云々」
要するに、エホバの証人の一員になるよう勧誘しているのです。
もちろん私は前回と同様に、特定の団体に入ることはないという意思を示しました。
考えなしに宗教団体の入ることは、よほど本質を見極める力がない限り、盲信に繋がります。
たとえ自分が本質を見極めていても、周りがそうでなければ一緒にやっていけませんし、言っても解らないから、結局脱退するだけで意味がないからです。
そのへんをその小母さんに解りやすく遠回しに、例のヴィットゲンシュタイン哲学を通して説明しました。

【以下私の説明】

「●」だったら「▲」ではない。
「▲」だったら「●」ではない。
でも、本質は同じで「凸集合(くびれがない)」なんですよねえ。
ある凸集合の図形を「●」と表現したり、「▲」と表現したりするだけのことで、(語り得ることを語り)、お互いに否定するのは間違いなんですよ。(語りえぬことは沈黙しなければならない)
中国人はそういうことはないんですよ。
あるときは「●」、あるときは「▲」という具合に。
でも私たち日本人は白か黒かという西洋思想に冒されていますからね。
知性をコントロールする必要がありますし、本質と末端を見極めなければなりません。
宗教に携る人たちに欠けているのはそれなんです。
でも、ヴィットゲンシュタイン哲学を実践している人なんて、おそらく1000人に1人もいないでしょう。
断言しますが、宗教関係者がヴィットゲンシュタイン哲学を実践しなければ、地上に平和は訪れません。

私は今まで、いろんな宗教に関わりました。
創価学会の友達もいましたし、親鸞会にも何年かお邪魔しましたし、幸福の科学にも行ったことがあります。
私の見立てでは、どの宗教や宗派もどこの団体もみんな「本流」は流れています。
要はいかに本流を受け止めるか、いかに本質を見極めるかであって、どこが良くてどこが悪いということではありません。
最初に話した「小麦の収穫」の比喩のように。

それから、いま私は人に頼まれたことを快く引き受けたりして利他業を実践していますけど、ただ宗教でそう言われてそうしているのではなくて、神や仏の光を受けていることを哲学を通して体感したうえで実践しているんです。
まあ、世間の人たちから見れば「でくの坊」ですけどね。

あっ、もちろんお宅の活動は否定しませんよ。
一つの表現と受け止めさせていただきますから。

【終】

私があまりにも熱っぽく捲くし立てたせいか、さすがにその小母さんも恐れをなしたと見えて、小さい声で言いました。
「今後、2・3回伺って話せることがあったら話します」

私もこういうことには些か疲れました。
今や「(天山)遯」の世、隠遁したいのですが、これも責務と思って向き合います。


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盲信者への対応(1) [中庸]

昨晩、教会に通う例の同年代の友人から2ヶ月ぶりに電話がありました。
はじめは近況報告や世の中の出来事などとりとめのない世間話で時間を費やしました。

友人が「ベーシックインカム」の話を持ち出したとき、私は迷わず日本導入賛成を訴え、彼も同じ考えを持っているということで、盛り上がりました。
台湾が実験的に導入していることから、
「台湾に行こうか」
とお互いに言ったりしました。
勢い余って私が憂さを晴らすように、
「ネットでは、あいにく日本人の大半が反対なんだよねぇ、怠ける奴が出るとか言って」
「怠けたっていいじゃないか、何でそんなご立派な人が多いんだ?」
「人間社会の基本は誰もが生活できることだろ?」
「そのための国家だろ?」
「だいいち反対する多数派というのは、やりたくないこと、しかも社会奉仕になっていないことをやって、頭も身体もカネと権力の奴隷になることを『怠けていない』と言って、学問や芸術を嗜んだり、社会全体や人生のことを考えている人を『怠けている』と言っているんだよ」
と捲くし立てると、友人も私のお株を奪うように、
「日本は病気だからね」
とひと言。

ところが一時間が過ぎた頃、友人が「聖霊」という教会の受け売りっぽいことを口にし出したので、私は面倒なことにならないように、一瞬黙った後少し話をそらして、
「スピリチュアルにもあるけどね」
とボソッと言いました。
彼は私が乗り気でないことを察してか半ばあきらめたように、
「漢字が違うけどね」
と言って、別の話、すなわち彼が過去に仏教の寺に行ったときの体験談に切り替えました。
「オレが霊のことを話したら、『霊なんてないんだ』って徹底的に怒られたよ」
「仏教って神も霊もないみたいだけど、どうなの?」
私は頭の中では、
「表現の違いだけで、それらに当たるものがないわけではないけど、肉体を持った者の感覚からすれば『語りえぬこと』だから積極的に表現しないんだよ」
とか言う準備ができていたのですが、なにぶん20年言い続けて解らない人なので、それはやめて、彼に解るように言ったのです。
「寺の住職みたいにプロでやっている人っていうのは、たとえ思っていても口に出せないことがあるんだよ」
「だいたい伝統的宗教団体っていうのは、経典に無いものは無い、無いから無い、それだけなんだよ」

〔我々地上人は、有るものは誰にとっても有る、無いものは誰にとっても無い、という実在論の上に社会生活を営んでいるゆえ、悲しいことに、経典に有るものは肯定し、無いものは否定するというように、話す側も受ける側も取りがちなのです〕

さらに私は続けました。
「大学時代の友達に(家が)創価学会の人がいて、今でも年賀状ぐらいはやり取りしてるんだけど、学生時代、彼に向かって『魂』という言葉を口にしたとき、彼は『またまたぁー』って、まるでオレが戯言を言ってるかのように受け流すんだよ」
「創価学会でも輪廻転生を盛んに説いているし、転生するその実体が単なる肉体じゃないことを前提にしているのは明らかなのに、霊とか魂というとそれは仏典に無いからという理由で無いんだよ、まあ表現しないというだけならまだしも、否定するような言い方をするし」
「早く言えば、組織宗教の人って、自分のものになっていないんだよね」
「組織宗教なんてそんなもんだよ」
「だからオレは組織宗教には興味ないんだよ」
結果的に私は、教会に通う友人に対して、他の団体を引き合いに、なだめたようで実は彼の盲信ぶりを遠回しに言ったのです。

本来は哲学的に原理を知ってもらいたいのですが、それは彼に限らず多数派の人にとって途轍もなく難しいようです。
それと同時に、この地球上の真の平和への到達は途轍もなく遠いようです。


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 [昆虫]

昨日は平日の休みということで、昼に母親を食事に連れて行くために1時過ぎに家を出て近所を歩いていると、アスファルトの路上にシルバーグレイの蝶が翅を閉じたままじっと停まっているのを発見しました。
寒いため動けないのでしょう。
uraginshijimi 1.JPG
なにぶん私の例もあるのでわかりませんが、この季節に生きているとしても、生殖の役目は終わったのだろうと思います。
クルマや人に踏まれるといけないと思い、私は蝶を摘まみ上げ民家の塀に停まらせました。
翅は裏が白くて先端がとがっていて、私も完全にお目にかかったことのない蝶です。
あとで調べる理由もあって、表側が開くのを待って撮影しました。
母は関心がないらしく、
「そんな臨終近いものに関わってもしようがないよ」
と言って、先へ歩いて行ってしまいました。
uraginshijimi 2JPG.JPG
少し翅を開いたので見ると、表側はなんと白い模様の入った焦げ茶色。
帰宅後、ネットで「タテハ」を検索しましたが、それらしい蝶は見つかりませんでした。
それならと、50年近く前に買ったいつもの昆虫図鑑を引っ張り出して眺めましたが、見当たりません。
というのも、たしかに翅の形がシジミチョウに似ているのですが、大きさからいって「そんなはずがない」という思い込みがあったからです。
というわけで、5分ほど掛かってやっと判明しました。
「ウラギンシジミ(メス)」〔活動時期8月~9月,開長4.5cm〕
50年前の本で新たな発見です。

今日、そこを通り掛かりましたが、もういませんでした。
関心のない方々は、「何アホなこと考えてるんだ」と思われるでしょうけど、私のような者は今も昆虫少年の虫が腹で鳴くのです。

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正夢 [霊的存在]

今回は近況報告です。
今月から講師として勤めている学校は東京の西の山の上にあります。
校舎の5階から外を眺めると、なんと、今年1月に見た「初夢」の中で屋上から見た風景にそっくりなのです。
正夢あるいは予知夢だったのでしょうか。

仕事はというと、とにかく雑用で忙しくて、非常勤講師の身でありながら、今月に入ってから満足に休んだ日がありません。
講師室では提出物のチェックと入力、小テスト及び再テストの作成などに追われ、かなり遅くまで残っていることが多く、帰宅してからも、採点したり予習したりで休まることがありません。
そのせいか、遂に風邪をひいてしまいました。
12月のなれば定期試験が始まり、我々非常勤は楽になるとのことで、それまで何とか乗り切ろうと思っているのですが、これって、もしかしたら4月下旬に占った時の易の卦そのままになっているのかもしれません。

4月の時点で、引き続き教員の仕事をすることに対する易の卦は『澤風大過』でした。
「能力以上のことをする羽目になる」
「でも、やってはいけないのではなくむしろやるべきだ」
直後に調べた資料では、たしかこんな意味だったと思います。

先週、中国人の友人に、
「我突然變得很忙。我累了。」
とメールを送ると、
「加油」
と返って来ただけですが、今日、
「我感冒了」
と送ると、
「吃藥了嗎」
「多喝水」
「多休息」
「工作和媽媽累了吧」
と反応に富んだ返信があり、私も、
「當然我吃藥了」
「但是我不會好轉的」
「周六和周日仍然公作」
と返しました。
私の中国語は、翻訳機を利用しながら作ったものなので怪しいのですが、だいたい意味は分かると思います。

易にしても正夢にしても、それから、「虫の知らせ」にしても、元来人間には予知能力が備わっているのではないかと思います。


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盲信者と唯物論者への見切り [中庸]

以前、父がよく念を押すように言っていました。
「そういう人は、いくら言ってもダメなんだよ」
それは、霊的な存在であることを自覚させようと(菩提心を起こさせようと)、その切っ掛けとなる話をしても、まったく入っていかずに拒絶する人、特に唯物論者のことを言っているのでしょう。
私は当初、
「そんなことはない、きちんと話せばわかるはずだ」
と思っていました。
ところが、恥ずかしながら最近になってようやくその原理がわかりました。
原理的にダメな人がいるということです。
(ある著名な作家が「『話せばわかる』は大ウソ」と言っていましたが、このことでしょうか)
このことは、盲信者にも共通することなのでまとめて言います。
言って何とかなる盲信者と言ってもダメ(無駄)な盲信者がいます。
同様に、言って何とかなる唯物論者と言ってもダメ(無駄)な唯物論者がいます。
何れもダメな方というのは、考える力がないのではなく、考える気がないのです。
少し強い言い方をすると、「考えない気」が充分あるのです。
言い方を変えれば、「相手が何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」なのです。
思考回路が「どこに属し、どこを排除するか」あるいは「誰を立てて、誰を攻撃するか」になっているのです。
ここで早々と断言しますが、ハッキリ言って、「権威」や「権力」だけです。

権威や権力のある人の言うことは無条件で聞くけれども、理解できずに鵜呑みにして、鸚鵡のように再生するだけです。
権威や権力のない人の言うことには、一切聞く耳を持ちません。
一切の思考を「力」に委ねてしまっているということです。
逆に言えば、同じ盲信者や唯物論者でも可能性のある人は、相手の身分や肩書によらず、「聞く耳を持つ」という人です。
それはとりもなおさず「理性を保つ」ということです。

〔*話は逸れますが、最近話題のベーシック・インカムの導入に対して、日本では反対者が賛成者の約2倍います。これは、よく言われる「日本人は権威に弱い」ということや、「プライドは余計なもの」と言って自尊心と一緒に「尊厳(魂)」まで捨ててしまうことや、日本に本当の意味で哲学や宗教が根付かないことなどと無縁ではないような気がします。〕

ともかく、私の周りには、ごくごく身近にどうにもならない盲信者と唯物論者がいるので、紹介します。

〔⁑その盲信者は長年話してきて、今になって私の言うことは、結局何も聞いていなかったんだと判ったのです(他で相手にされず、話し相手として私を選んだだけのようです)〕

たとえば、例のキリスト教会の盲信者が他の宗教に理解を示さず異端扱いするのを聞いて、私がそれを指摘すると、
「キリスト教を嫌っているのがわかる」
「でも迫害されることを誇りとする」
などと、「良きクリスチャン」気取りでさらに思考停止(悪しき聖職者)を露呈するのです。(本質と末端の表現の関係をまったく理解できません)
こちらはなにも、キリスト教そのものを嫌っているわけでもないし、迫害しているわけでもないのです。(以前から話してわかっているはずなのですが)
理解がなければ無益な争い事、宗教戦争を起こすことになって、平和をもたらさないと言っているだけであり、そうやって信者を家畜にすることで組織の権威を保とうとする教会の欺瞞を指摘しているだけなのです。
私はそれ以来、彼にその話をするのをやめました。

このように、あいにく現在の形骸化した地上組織宗教は「思考停止した人の唯一の逃げ場」となってしまいました。
逃げて辿り着くだけならよいのですが、その場所が広くて名が通っていて居心地が良かったりすると、変に自信を取り戻した盲信者が、今度はその場所から、他の逃げ場に居る人や逃げ場を持たない人に攻撃を仕掛けてくるのだから始末が悪いのです。
まさに「虎の威を借りる狐」であり、その狐が「張り子の虎」となって虚勢を張るのですから、滑稽としか言いようがありません。
また、その権威ある虎も今や剥製の虎と言ってよいでしょう。
〔⁂実を言うと、私としては、そのことにおいて「唯物論者」と言を一にしなければならないのが何よりも辛いのです。〕

しかしここで肝心なことは、その虎が剥製や張り子だからどうだというのではなく、権威を借りて自分は責任を持たないということが「道」ではないということです。
そもそも権威とか権力を「超越する」ことが聖人たちの教えであり宗教の目的であるのに、盲信者たちは明らかに聖人たちが後世の人にやってもらいたくないことをわざわざやっているわけで、まるっきり宗教の目的から外れているのです。
しかも、盲信者自身は権威を借りていることにも気付かなくなっているというオマケ付きです。
そのことは以前にも取り上げた『論語』の、
「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」(務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣)
にも記されているように、地上での実践を疎かにしてすべてを霊人に託してしまうと、自分のすることが神様のすることにように感じてしまい、自分も周りの人も人間であることを忘れてしまうのです。
〔⋆スピリチュアリズムでは、その手の盲信者のように理性を捨てると、低級霊に乗っ取られる危険性があると注意します〕

繰り返しますが、言っても無駄な人はなぜ言っても無駄なのかといいますと、思考形式が完全に、「何を言ったかではなく誰が言ったか」になっていて、「権威」がすべてだからです。
私のような者には地上的な権威がありません。(というより無用です)
相手が「聞く耳を持たない」のですから、飼い馴らされた犬に、野良猫になるよう説得するようなものです。
結果、その手の盲信者は、たいがいは周囲から相手にされなくなるか見下されるかであり、さらにまた権威にしがみつくという悪循環に陥るわけです。
それでもなお、頭の中は、他人から見下されてきたお返しに、優位に立って他人を見下したいという欲求でいっぱいなのです。

それでは、唯物論者は?
「死んだら何もないんだから」
と言って、エゴのために平気で嘘をつく極めて身近な唯物論者に、
「じゃあ、何で生まれてきたの?」
と問い掛けると、一瞬表情が固まって考えようとしますが、答えられずに、次の機会には、
「どっかの教祖の受け売りをして」
とか、
「死んだ父親にそっくりね」
と言い放って、まるっきり元に戻ってしまいます。(何十年も身近にいるのに私を知らない?)
要するに、子供の頃からの自発的な菩提心がなく、それを掘り起こそうとする人には、単なる地上的な様式(性格)として片づけてしまいます。
私は、
「どこの教祖がどうであろうと、誰に似ていようと、霊的進化をするために生まれてきたんだよ」
と、念を押して、それ以来話すのをやめました。

言わなくてもわかると思いますが、現在の地上宗教の盲信者と同じ構造です。
唯物論者の中にも、高級な唯物論者と、言って解る唯物論者と、言っても無駄な唯物論者がいます。

高級な唯物論者は、単に方法論として物質の面から充実を図るだけで、すでに信仰心は備わっています。
言って解る唯物論者は、哲学(省察)の切っ掛けがないだけで、充分に道を得る可能性があります。

言っても無駄な唯物論者というのは、言っても無駄な盲信者の場合と同じ理由で、劣等感を優越感に変換するために地上の権威に思考を託すわけです。
つまり「権力」や「財力」がすべてです。
かくして、地上の永住者となります。
世間で言われている唯物論は、「ベリアル教」という霊的なものを否定する一つのエセ宗教でもあります。
そして、言っても無駄な唯物論者というのは、言っても無駄な「ベリアル教」の盲信者と言うことができます。

そんなことを言う私でも、
「言っても無駄なんて、諦めちゃダメじゃないか!」
と逆に非難されることもあるのは事実です。
しかし、理性による信仰を広める人たちにとって、そのように理性の限界を知るのも「道」のうちです。(歴史上の聖人はみな知っていたようです)

私を含めて、本物のスピリチュアリズムを普及しようとする者は、そこを弁えて行動すれば、その手の人間を相手に思うように成果が得られなくても失望したり自分を責めたりする必要がなくなります。
それでも、「誰でも話せばわかる」と勇ましく立ち向かう人は、100パーセントどこかで失望するでしょう。
そのとき、原理を知ると知らないでは失望の度合いがあまりにも違うのです。

なにか消極的で覇気がないと思われるでしょうが、これは動かしがたい原理なので、心ある人は永遠に悩み続けたり、変に失望して活動を停止することのないように願うばかりです。
それよりも無駄な時間と労力を温存して、それ以外の可能性のある(聞く耳を持つ)人たちに希望を見出せばそれで充分だと思います。

「いやあ、この地球人類は思った以上に、いや絶望的に霊的に病んでるなぁ」
まるで自分が異星人になったような言い方ですが、率直な感覚です。



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「聞く耳を持つ」の真意 [中庸]

ある浄土系の人の喩えでは、
『ある石を徹底的に磨いたが、宝石にはならなかった。それは、単に原石が宝石ではなかったから。ダイヤモンドやルビーの原石を磨いて、はじめて宝石になる。』
自力は三乗、他力は六乗。
善行や勤行などの自力で救われるのは限られた者だと言います。

ならば、宝石の原石ではないと思われる石は、ただ神や阿弥陀仏を信じれば救われるというのでしょうか?
人間の計らいでは神や仏の世界に入れないからと言って、ただ神や仏を賛美したり拝していれば神や仏が降りてくるというのでしょうか?
スピリチュアリズムではそれはありません。
それに、宝石の原石は限られた者であって、なれない者はどうやってもなれないというのも疑わしいのです。(ある意味ではそのとおりですけど)

そもそも宝石の原石とはどういう人なのでしょうか?
ひと言で言えば、「聞く耳を持つ人」のことです。
「えっ?」
と思うかもしれません。
私がいつも言う、理性によって神や仏の光を受けていることを知る人のことです。

順番を間違えないように願います。
浄土系においては、あくまで信不退であって、行不退ではありません。
「信(深信)」があって初めて「行(利他業)」が効いてくるのです。
中には、
「そうは言っても、深信なんて、それはもともと宝石の原石の為せる業であって、自分は所詮普通の石ころだから無理だ」
とはじめから自分に限界を作る人がいるかもしれませんが、それは早すぎます。
聞く耳さえあればできます。
その「聞く耳がある」ということが宝石の原石の証しだからです。

聖書にも、所々に「聞く耳を持つ者は」というイエスの言葉が記されています。
もちろん、聞く耳を持たない者もいます。
「聞く耳」とは何か?
イエスなどの聖人や預言者の言うことを鵜呑みにすることではけっしてありません。
イエスなどの聖人や預言者の言うことを切っ掛けに、自分の理性で実践することです。
乱暴な言い方をすれば、
「私の言うことを真に受けるな」
というあたかも自己矛盾のような教えに応えることです。
(シルバーバーチも「納得できなければどうぞ拒絶してください」と言っています)

それもあって、聖書などでは内容が象徴で書かれています。
それは実践する人でなければわからないようになっています。
「立派な土の上に蒔かれたもの、これはみ言葉を聞いて、その意味を悟る人のことです」〔マタイによる福音書より〕
聞く耳を持つというのは、『自分で悟ること』なのです。
その効果はともかく、無駄に盲信者を蔓延らせないために象徴で書かれているのです。
「持っていない人、その人はさらに持っているものさえ取り去られるのです」〔マタイによる福音書より〕

しかし、そのように言うと、理性を捨てた盲信者は、
「そのように分析しちゃだめだよ」
と、見下すように鼻で笑って言います。
内容がわからないことを逆手にとって、「一行一句も変えてはいけない」と聖書を聖遺物として戴くことで自己防御を計るだけなのです。(盲信者については次回にします)


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神仏の光 [中庸]

今回は再び深くて重い話になりますが、お付き合いください。

「人に為に生きる」
よく聞くことですが、ある人がこんなことを言うと、
「本気で言っているのかなあ?」
と疑う人も多いと思います。
たとえば、この間亡くなった著名な医師が言えば、
「財も名声も得たことによる驕りではないか?」
と取るかもしれないし、
私のようなニコヨン風情の者が言えば、
「社会的成功が叶わないことによる代わりの希望的逃亡だ」
などと言われるかもしれません。
私も今年に入ってから、身の上のことで心細くなって、そうかもしれないと思うこともありました。
しかし、そうではないと確信します。
真の利他愛があると確信します。
なぜなら一つには、私は幼少の頃から、本当に見返りなしに他人に施す人たちに囲まれて育ってきたからです。
その経験が揺るぎない事実だからか、最近になって強く思い返すようになりました。
もう一つは、いつも言う「省察」によって体感できるからです。

過去にも取り上げたと思いますが、
「人間の他人に対する施しも、すべて施す人の欲求を満たすためだ」
と言う人が周囲にいることでしょう。
私も子供の頃にそう思っていましたし、若い頃はそれで悩んでいました。
まあ、ひとまずそのとおりだと言えます。
「情けは他人の為ならず、自己の道徳心を満たすためなり」
どんな事情があろうと、すべての行為は最終的には本人の意思で決めるのですから、論駁は出ません。
有名な『一休が乞食に衣を差し出した話』もそうですし、荀子の『性悪説』でもそれを説いています。〈*〉

みな「第一の絶望」に陥っているのですが、それを認めることが第一歩です。
(荀子の言う性悪説を理解する)【①機の深信】
もし認めないと、もっと深い「第二の絶望」に陥ります。
(孟子の言う性善説を理解できずにはき違えて地上的な小善を極める方に走ります)
エゴのフィルターを通して見ているわけですから、悪を前提として善をとらえることから逃れられません。
世の人の言う善はすべて偽善と受け取れます。【①】
すべては偽善だと知ると、自らの利他業に対して自信を失うのは当然です。
このままなら、悪人正機をはき違えて悪行に走る人を責めることさえできません。

ここで、ちょっとだけ冷静になってほしいのです。
逆に、悪を悪として意識できるということは、初めから善があるからだとも言えるのではないでしょうか?
エゴをエゴとして意識できるのは、初めから「他人への施し」(利他)が人間に備わっているからにほかならないでしょう。
たとえ偽善行為であっても、他者への施しが出来るのは人間だからであり、動物にはありません。〈⁑〉

つまり人間には「仏性」が備わっているのであり、いつでも「神仏の光」を受けているのです。
「悪・善(偽善)」の直線全体が「神仏」の地上における表現です。【②法の深信】
これを知ることが真の「善」であり、肝腎、いや、すべてと言っていいと思うのです。

親鸞聖人の教えではそれらをまとめてこのように言います。(表現は一部私が決めました)
「もう自分はどう足掻いても救われないんだと諦めた(覚った)ときに救われる」
でも、これはあまりにも言葉が足りなくて、よくわからないと思います。
具体的にどういう実践をすればいいかが示されていないからです。
「諦める」とは「明らかにする」ということで、たしかにこれは「第一の絶望」を認め、「第二の絶望」に陥らないところまでは来ているのですが、【①】それだけでは「救われる」までは至らないと思います。【②?】
もちろん、この時点で神や仏に縋るのは道ではありません。
活動が必要です。
活動とは、くどいほど言ってきた即非、絶対矛盾的自己同一、中庸であり、それによる「性悪説」と「性善説」の本当の意味での理解です。
「考える」という理性の活動です。

法然上人も親鸞聖人も「信不退」であって、けっして「行不退」ではないと言うのですが、「信(深信)」というのがまさに「考える実践」であり、「行(雑行)」は末端の小善のことです。
信じるというのは、けっして思考を預けることではありません。

「悪・善(偽善)」の直線を極めるのではなく、【①】直線全体を超越することです。【②】
たとえば、他人への施しは、大金を寄付するなど度合いを強めればよいのではなく、荷物を持ってあげるなど些細なことでもよいから、この原理を知った上で自信を持ってすることが肝心なのです。
とは言っても、原理を知って他人へ施しても、エゴは消えるわけではありません。
肉体を持っている限りエゴは消えません。(エゴとは直線全体)
利他業をしているときでも、頭のどこかに「見返り」や「自己満足」があることでしょう。
それでもいいのです。〈⁂〉
動機がエゴ(エゴイズム)でなければいいと思います。

スピリチュアリズムにおける地上生活の目的は「エゴの克服」ですが、エゴを克服するとはエゴを消すことではなく超越することです。
超越するとは、理性によって神仏の光を受けていることを知ることに他なりません。
理性を「地上の計らい」として切り捨てる盲信者がよくやることですが、エゴを消そうとして消えないからと言って、神に罪を肩代わりしてもらおうとただ神に祈ることは間違いです。



*ただ、(推測にすぎませんが)荀子の場合は、世の人々があまりにも『性善説』をはき違えて、一方的に地上的に善行を極める方に走り迷い込んでいる(第二の絶望)のを見かねて、説いたのだと思います。

⁑動物には知性がなく計らいもありません。動物は悪も善(偽善)もなく、共生や自己犠牲はあるにせよ、それはただ生存や種の保存の都合だけです。

⁂たとえば、「情(情愛)」は愛から派生するものであり、エゴの尽きない人間の地上における末端の表現だと言えます。「情(情愛)」を愛ではないと言って無下に切り捨てる必要はないはずです。


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