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『必要無駄』再考 [中庸]

先程、ネットのニュース(msn)を見ていたら、次のような記事を発見できました。
私および同胞が次々と(学校)組織から離れていった事情や、私が今の日本の組織に新たに入り込めない理由、そして私が著作やブログで訴えたいことの一部が、この記事に無駄なく記されているので、そのまま引用しました。
少し長いのですが、まず読んでください。

【引用】
《9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ 歴史と哲学が教える「悪の陳腐さ」の恐怖》
『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。
二度と悲劇を起こさないために
 筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。
 残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。
 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやマルクスがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。
 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。
 特に実務家と呼ばれる人は、個人の体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。
 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。
 実に辛辣な指摘です。
 ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。
 ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレムで裁判を受け、処刑されます。
 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。
 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。
 「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。
悪の本質は「受動的」であること
 アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、
 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。
 そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。
 別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。
 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。
 自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。
 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。
 ①現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方
 ②現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方
 残念ながら、多くの人は①の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の①の論点に沿って書かれたものです。
 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。
 話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。
 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。
なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか?
 一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車、東芝、神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。
 筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。
 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。
 コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか? 具体的には次の2つ、
 ・オピニオン
・エグジット
 ということになります。
 オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。
 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。
日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない
 たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。
 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。
 したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか? 従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。
 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。
 しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら? ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。
 要するに、雇用の流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。
【終】

付け加えたいこととして、これが20年前に比べてますます強まっているということです。
それから、このような伝染病によって肉体や精神が冒されながらも、日本では、多数派の間で、(それとも、今話題の圧力で?)
「それでも文句を言わずに頑張っているんだ」(それ以外は逃げてるだけだ)
と言って、地上道徳的に立派な人間として、崇める傾向があるという絶望的状況にあります。
中には、思考停止した人を「我を捨てている」などと悟った人として祭り上げる宗教施設もあると聞きますから驚きです。
戦時中とどこが違うのでしょうか?

そこで、ある知人が「必要無駄」について言及していたので、振り返りたいと思います。
まあこれが上記の冒頭における「教養」に当たるのですが、間違ってはいけないのは、けっしてそれが直接的に「霊的進化」になるわけではないということです。
「必要無駄」は無駄なのですからそれでどうなるわけではありません。
(芸術に携れば来世は美形に生まれるというケイシーのリーディングもありますが)
「必要無駄」は、あくまで「方便」です。

法華経における「方便」は、家が火事であることを住人に直接言っても信じないから、外に面白いことがあると言って外に連れ出すことで、はじめて家が火事であることを知るという譬えで知られます。
損得など地上的なことに終始していると、自身が危険な状態であることに気づかないものです。
「地上の住人」にならずに「地上の旅人」でいるために、損得抜きで純粋に打ち込むものが必要なのです。(地上経験の目的は無垢の獲得です)

そのためでしょうか、儒教が浸透している韓国では、「余技」と言って、本業よりも打ち込むものを重視していると聞きます。

ダンテの新曲の中に、何人かで煉獄山を登る場面があり、途中ダンテ(?)が歌を歌おうとすると、
「それは古い殻だから捨てなさい」
と諭される件があります。
芸術などの教養があくまで地上の方便として必要性があることを示唆していると言えます。

空海の「三教指帰」においても、儒教と道教のどちらにも偏らずに、中道を行く主人公の若者に、自身を反映させたのでしょう。

みなさんどうでしょう?
幸せとは何でしょうか?


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死に対して [霊的存在]

今回は手短に話します。
スピリチュアリズムを貫き、地上と霊界を同時に、生存と死後をトータルで考えて行動すると決めている私にとって、もはや肉体の死は怖くありません。(本当?)
もちろん、他の人の死に対しても、この世における別れの悲しみはあるにせよ、忌み嫌うことはありません。(!?)
と言っておきながら、先日それに悖る行動をしてしまいました。

父の死の時以来27年間お世話になった寺の元住職が亡くなったので、日曜日の夕方、私一人でお通夜に行ってきました。
帰宅途中、香典返しに清めの塩がないのに気づき、
「最近は使わないところが多いからな」
と思いながらも、玄関で迎えた母にそれを言うと、台所から塩を持ってきてくれて、身体にかけてから家に入りました。
香典返しに入っていたあいさつ文には、案の定、
「人の死を忌み嫌うことはしない」
「清めの塩は迷信なので我々は使わない」
ということが書かれていました。
私も頭で分かっていながら、つい習慣で迷信に基づく行動を選択してしまいました。

5年ぐらい前だったか、職場で右隣に座っていた若い女性の数学講師に、雑談の最中、私はこんなことを言った覚えがあります。
「死ぬのは全然怖くないんですけど、死ぬ前に苦しむのが嫌でね」
女性講師は、
「ああ、死そのものは怖くないということですね」
と、珍しい人がいるもんだと、やや呆気にとられたような反応をするだけでしたが、その後いろいろ考えた末、どうもそこのところが地上経験における課題なのではないかと思うようになりました。
以前にも取り上げましたが、作家の正岡子規が死を間近に控えた病床で言った言葉が衝撃的で、脳裏に焼き付いて離れないのです。
「私は今まで、悟りとは平気で死ぬことだと思っていたが、それは間違いだとわかった。悟りとは平気で生きていることだ」(文章の細かい表現はわかりません)
そうすると、私が、
「死そのものは怖くないけれど苦しむのは嫌だ」
などと言っているのは、悟りに達していない証拠だということになるのでしょう。
以後、物質生活のための仕事や母親の介護など、私が今経験している苦難は悟りまでのプロセスと思うことにしています。
霊的に言えば、肉体も思考も「楽」になることが幸福なのではありません。
それは重々承知のはずですが。
親鸞会の人が言うように、
「渋柿が熟して甘い樽柿になる」
頭では分かっていますが、簡単に実行できるものではありません。〔说起来容易,做起来很难〕


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介護 [霊的存在]

ひと月以上空いてしまいました。
今回は近況報告というより、身の上話になってしまいそうです。

6月に入って、母親の脚が急に痛み出して歩行困難になりました。
これまでも、フラフラしながらやっと歩いていましたが、今は外を歩くことがほとんどできなくなりました。
はじめに姉が、「待たずに診察を受けられる」という理由で、日曜日にタクシーで近くの大病院(江戸川病院)に連れて行きましたが、満杯ということで、指示に従い、「イムス」に行ってレントゲン撮影を受けました。
当初疑いのあった股関節の骨折の可能性は低いものの、レントゲンだけでは断定できず、後日改めて、MRI検査を勧められました。
3日後の水曜日(私の休日)に、今度は私が母をタクシーで病院に連れて行き、MRIをお願いしましたが、予約が必要とのことで、一週間後の水曜日に連れて行って検査。
母は頭も疑わしいので、診察は私も立ち合いました。
診断の結果、「坐骨神経痛」と「すべり症」。
骨に神経が圧迫されているので、いくらマッサージしても湿布しても効き目がないのも当然です。
あらかじめ並行して相談していた介護(小岩ホーム)の人たちに報告し、家に来てもらって、今後の対策と契約手続きのことで話しました。

その後、私が家にいる時に、クリニックの相談員や医師、区のケアマネージャーなどが入れ代わり立ち代わり来て、様子を見てもらいましたが、すぐに脚の痛みが治るわけでもなく、できなくなった家事をすぐに代わりにやってくれるわけでもありません。
結局、今のところ、朝と夕方の食事の用意と片付けは私がすべてやっています。
洗濯に関しては、洗濯機の操作は母がやりますが、干したり取り込んだりは困難で、無理してやってはいますが、私も手伝います。
仕事の帰りには、毎日のように弁当と次の朝の調理パンとカットフルーツ、それに母が昼に1人で食べるための肉類などを買って、重い荷物を担いで帰宅します。
そのほか、ティッシュペーパー、トイレットペーパー、仏壇の花、ごみ袋等々、なくなり始めたら、言われる前に私が買ってきます。

完全な「介護」という程ではありませんが、動けなくなった母一人の面倒を見ることがこんなに大変なものなのかと、つくづく実感します。

そして何より辛いのが、分別がなくなり、「完治する」という無理な希望を口に出すことです。
夕方、食事中または食事後、医者からもらった薬の効果が切れるころに、母が痛がって近くの布団に寝転がり、じっとしても痛いから動き回って余計に痛がり、思わず、私に言うのです。
「ねえ、薬屋さんに行って薬買ってきたほうがいいかなぁ?」
私は、
「何言ってるんだよ、医者からもらった薬を飲んでるじゃないか」
「それ、痛み止めと神経の薬なんだよ」
と諭すだけで、痛みを消すことはできません。
私ができることは、医者の薬を飲むよう促し、また、飲んだことを忘れて二度飲まないように監視し、毎日のように腰から脚へマッサージをして、気持ち良くさせるだけです。

9年前に母が圧迫骨折で入院して手術をしたときに、担当医に言われたのですが、手術ができるのは、母の場合は90歳までだということです。(心臓が持たないということでしょう)
今90歳なので、死を覚悟でイチかバチか手術をするか、ブロック注射でだましだまし行くか、それ以外に痛みを緩和する方法が見つかりません。

そうこう思案していると、先日の夜、同い年の友人から電話があり、近況を話しました。
なんと彼自身、ここ一年坐骨神経痛に悩まされているということでした。
彼は、整形外科で低周波電流マッサージ機の治療を毎日受けて、1年経ってやっと緩和し始めたと言っていました。
ただ、今はその手の入院は1か月までだというので、歩いて通院できなければ事実上は無理だということになります。
また手立てが消えました。

今後のことは成り行きに任せるとして、私がなぜこのように母親の面倒を見ることになったかと申しますと、これには深い事情があって、どうも私は生まれたときから決まっていたようなのです。
私が生まれたときに、祖父(母の父)が、母にこう言ったそうです。
「この子はあなたを一生守るからね」
私はその話を若い頃から何度も何度も聞かされましたが、以前は何のことやらさっぱりわかりませんでした。
しかし、10年程前に縁あって易学や姓名学を学んだことでハッキリわかりました。
要するに、「五行(木・火・土・金・水)」です。
祖父はプロの易学者で、私と姉の名付け親でもあります。
祖父はそれを言っていたのでしょう。
人は生まれた年によって、他の人との相性が決まっています。
もちろん傾向にすぎませんが、私の経験では、驚くほど当てはまっています。
(みなさんも思い当たることがあると思います)

私は三碧木星で、母は九紫火星です。
「木生火」と言って、木は火を助けるわけです。
gogyou.JPG
姉は五黄土星なので、「木剋土」と言って、木は土を消してしまうので、姉とは相性が悪いわけです。〔相生も相剋も一方通行?〕
ついでに言えば、「火生土」なので、母と姉は相性が良いと言えますが、私に言わせれば、母は昔から姉を変にかばってしまっているようです。

いずれにせよ、今まで胸に痞えていたものが腑に落ちました。
それ以来、私が母の面倒を見るのは「宿命」だと受け止めています。
それは霊的成長におけるカルマ解消の部分なのでしょう。


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奴隷王国(+ピアノ演奏) [中庸]

このところ幸福になれない日本を象徴する事件がいろいろと起きています。
特に組織内の人は、権力にがんじがらめで、人間的な行動が困難です。
極言すれば、正直、誠実、真実味、純粋といったものは、すなわち失業を意味します。
皮肉っているようですが、そういうものを教えるべき学校においても、ある意味で狡猾さがなければ居られません。
教会の人の言葉を借りると、まさに悪魔が支配していると言っていいでしょう。
5・6年前だったか、「ブラック企業」などという語を聞くようになりました。
そのころ私も、自分のことを棚に上げて、
「いつになったら若者が希望を持てる国になるのかねえ、この国は?」
などと、未来の日本のことを心配している振りをしていましたが、今ではその余裕すらありません。
世の中は相変わらず、
「奴隷になりますか?それとも仕事辞めますか?」
「人間やめますか?それとも生活やめますか?」
その二者択一しかありません。

私は現在そのボーダーラインにあります。
「(天山)遯」の世にあって、霊的不正を起こさないギリギリのところで人間的な生活を保っているわけです。(いわゆる昔の「ニコヨン」です)
「いや、才能と実力があれば、そんなのは関係ないよ」
という人がいると思いますが、まあ、そのとおりです。
一流であればそうでしょう。
あいにく私にはそこまで才能はありません。
少なくとも認める人はいません。
今も、仕事と生活は別になっています。

先日TVで、台湾で尊敬されている日本人を取り上げていて、それが「手書きの看板職人」だったので、興味を持ちました。
今では日本に数人しかいないそうで、よほどの名人芸でない限り需要がないことは明らかですが、台湾で持て囃されているということは、情報に違わず台湾は古き良き日本の雰囲気があるということでしょうか。
「これならできるかな」(手足が使えるかな)
と一瞬、希望の光が差しました。
実は、活字を手で書くのは私にとっては苦ではないからです。
私の父方の叔父の一人(故人)は看板屋(兼画家)をやっていました。
昭和30~40年代はそれで生計を立てていたようですが、次第に機械で作った出来合いのものを売るだけになっていったと聞きます。
私はその血を引いているので、性根を据えて修業を積めば台湾でいい線行く(?)と思います。
そんな私に対して、
「あんたを見ていると、とても一途になれるとは思わない」
「絶対成功しないよ」
と、悪口を言う人がいます。
まあ、一理あると思います。
でも、一途にならなければ本当に成功しないのでしょうか?
そうとも言い切れないと思うのです。
日本がこうなってしまったのは確かです。(一線で活躍していた芸術家や職人が次々と辞めて転業していくのを目の当たりにしています)
しかし、かつての日本は違ったようです。
私の父は材木商の次男で、実家の手伝いをして生計を立てていましたが、先ほど言った叔父を含めて、兄弟たちでバンドを組み(父はベース担当)、昭和30年代は小遣い稼ぎできたほどです。
その実力はというと、アマチュアというより、ほとんど素人ですね。
そういう話はほかでも聞きます。
ある年配の女性が、若い頃ダンスホールで一日エレクトーンを弾いて、7万円(昭和45年当時の7万円です)もらえたと言っていました。
私がもしその頃大人であれば、完全に挿絵画家や看板屋、バンドマンまたはクラブ歌手などをやっていたと思います。

https://photos.app.goo.gl/wbL5ZnV3u3n34nSa7

この動画は2か月前に録画したものです。
曲はラモー最後の鍵盤作品『王太子妃』。
実は30年前に一度この曲を練習したものの、両手が重なるところがどうしても弾けなくて挫けてしまいました。(今でも上手く弾けません)
心得のある方はぜひ弾いてみてください。
おそらく、右手の2指を押さえながらの4・5指のトリルや、1・2指による逆位置トリルに悩まされると思います。(私はわりと得意です)
聴いてわかると思いますが、細かいミスが多く、音階もキレがありません。
これでも、テイク5なのです。
プロの方がいかに上手いか、その意志や練習量の凄さが身に沁みてわかります。

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歎異抄について [中庸]

前回に続いて、NHKテキスト『歎異抄』〔釈徹宗〕を買って読みました。
歎異抄に関しては、25年も前に文庫本で読んで知っていましたが、どうしたことか、当初私は、親鸞聖人が、「自身の教えに対して人々が曲解しているのを見て嘆いている」ということを、唯円がまとめて著したのだと思い違いをしていました。
今回、「唯円が嘆いて著した」と初めて知りました。

いろいろある中で、まず特記しておきたいことがあります。
要約すればこうです。
インド文化圏では哲学や思想は信仰と共にあり、信仰のためにあくなき知的探求があり、知性は信仰に裏付けられています。
仏教も同じく、自分自身で教えを理解し、納得し、実践することが目指されます。(聞思修)
要するに、仏教はそもそも知と信が一体だということです。

これに反する宗教の代表のキリスト教には、
「知性や理性は信仰の邪魔者である」
という考えがあります。
テルトゥリアヌス(2~3世紀)の言葉として知られていた、
「不合理ゆえにわれ信ず」
は、キリスト教信仰の対象は理性による解釈とは関わらない超越的なもの、との認識に基づきます。
しかし、今日では「否定されている」とのことです。

どういう場でどういう人たちによって否定されたのかは不明ですが、この情報は私にとっては衝撃的でともあれ確実に追い風です。(良いかどうかは何とも言えませんが)
もっとも、昨今の原理主義者たちの起こす事件を見れば、理性を排する宗教が「思考停止」以外の何ものでもないことは明らかですけれど。

今回の根幹はやはり『雑毒の善』でしょう。(以下、このブログの「神仏の光」と被ります)
煩悩の毒の混じった(自分の都合が入った)善のことです。
〔引用〕『歎異抄』によると、聖道の慈悲とは、いまの言葉で言う人間愛やヒューマニズムにあたり、「すべてのものを憐れみ、愛おしみ、育むこと」を意味します。しかし「それは不完全なものではないのか」と親鸞は問うのです。なぜなら、いずれも自分の都合によって歪んだ愛情だからです。それでは真に他者を救うことなどできない。
だから、浄土へ往生して、仏と成って、人々を救うことを目指す。それが浄土門の慈悲だとしています。〔終〕

そこで、
「善行がすべて『雑毒の善』ならば、やらない方がいいのか?」
という疑問が当然出てきます。
〔引用〕親鸞聖人は世間で善い行いとされる社会奉仕などを否定していたわけではないと思います。しかし、仏道という点からいうならば、「それは不完全なものと認識せよ」と言っているのです。〔終〕

そうです。
「それでどうにかなると思うな」
ということです。
荀子の『性悪説』の真意です。
それに対して、
「『雑毒の善』(偽善)だからやめろ」
これは、荀子の『性悪説』と孟子の『性善説』を理解せず、地上で何も奉仕しない人の言い逃れとしてよく聞かれます。
さらに、ある共産党員が、『雑毒の善』を認めず、さらに孟子の『性善説』を曲解して、地上に純粋な善があると思い込んで追求するようなこともあります。

私の見解を申しますと、慈悲や善行というのは、「結果」あるいは「表現」だと受け止めます。
順番が違うのです。
けっして、それによって悟るとか極楽浄土に往生するというわけではありません。(浄土門が一方的な自力という意味で否定したのでしょう)
往生するには他力でよいのですが、他力と言っても、何もしないのではなく、仏の光を受けているということを知る実践(思考活動、省察、瞑想)が必要です。
曹洞宗の道元も、禅における座禅は煩悩を消すための修行ではなく、自分がブッダであることを確認する作業だと言っています。(それを、自力と呼ぶのは違うと思います。そもそも浄土門の人が他力と自力を作ったのです)
〔引用〕自分の影の部分が見えるのは、救いの光に当たっているからなのです。光に当たるから、くっきりと影が見える。親鸞はこの影を生涯ごまかさず、ずっと向き合い続けた人なのです。〔終〕

肉体を持っている限り自分の都合(エゴ)は消えません。
ですから完全でなくてよいのです。
仏の光を受けているからこそ、悪を悪としてとらえることができるのです。
仏の光を受けていること、救われていることの表現をするだけのことです。



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「救われること」と「悟り」 [中庸]

一か月以上空いてしまいました。
ご察しの通り、相変わらず私は、精神活動が疎かになっているのを、物質生活維持のための仕事のせいにして言い逃れています。
今年の講師業は週21時間で、空き時間がほとんどなく、終わるとクタクタ、年齢のせいもあってか、1日休んでも身体の疲れが取れません。
今年の就業規則の中に、
「始業2分前には職員室を出て、チャイムと同時に授業を開始する。1分でも遅れたら、減給(その一コマの分の半額)とする」
というのがあります。
また、父兄から苦情が出れば、どんな事情があろうと、先生方が右往左往した挙句、結局はその担当教員の落ち度という形で処理します。(先月早々とそういうことが起きました)
もうそれだけ聞けば、今の学校という空間がいかに息苦しい所か皆さんにも判ると思うのです。
こんな状態で1年続くか不安ですし、またその先がまったく保証がないということで、余計に気が重くなります。
まあ、時代劇に出てくる用心棒を生業とする無頼の浪人みたいなもので、人手が必要とされるときは、
「先生っ!先生―っ」
と、割りと高い手当で重宝され、もしも、しくじったり、もっと強い浪人が現れると、
「役に立たないので、先生にはやめてもらいますよ。」
と、手のひらを返したように冷たく切られます。
というわけで、別の業種の知人に私の仕事を紹介するときには、「浪人」に例えます。

近頃は文化的活動といっても、中国語の学習とピアノの譜読みぐらいで、それに時間が費やされるためか、スピリチュアルや哲学または宗教に関する新たな展開がありませんでした。
そこで久しぶりに本屋に立ち寄って、仏教関係の本を買いました。
『別冊NHK100分de名著・集中講義・大乗仏教(佐々木閑著)』
内容としては、般若経、法華経、華厳経、浄土教、密教・・・・・、同じ仏教なのにどうして教えが違うのか?特に、「自己鍛錬」の釈迦の教えから「衆生救済」の大乗仏教に変わっていった経緯を、対話篇にしたのもです。

私にとっても、初めて知ったことがいろいろあり、勉強にはなりました。
細かいことはいろいろありますが省きます。
特に気になったこととしては、やはり、「盲信を認めている」ということです。
盲信を勧めるとか良いと言っているのではなく、致し方ない、あるいは、それなりに意味があるといった感じです。
「致し方ない」のはわかりますが、それでも結果的にマイナスをもたらすと私は思うのです。

ともあれ、釈迦の教えから浄土教へ移るにしたがって、目的が「悟り」から「救われること」へ変わったということです

【以下断片的に引用+コメント】

〔極楽浄土に往生できたとしても、それは仏道修行のスタートラインに立ったにすぎません。本来ならばそこから菩薩修業が始まるはずなのですが、不思議なことに浄土教では、次第に「ブッダになること」ではなく、「極楽浄土に往生すること」を最終目的と考えるようになっていったのです。〕

〔法然や親鸞も、極楽に往生することを最終目的だとは考えていなかったと思います〕

〔極楽浄土に往生すればそこに永遠に居続けられるという話に変わっていきました〕(これって疑似天国じゃないのか?)

〔浄土教は仏教というよりも、キリスト教に近い教えになっていったといえるかもしれません〕(キリスト教も本来のものとは違っていったのではないのか?)

〔いくらそれが本来の仏教の教えとは違っていたとしても、救われる人が一人でもいれば、その教えにはやはり意味があるのです〕

〔極楽浄土の存在を本気で信じれば、死ぬのが怖くなくなりますよね。(略)捨て身になった人間ほど恐ろしいものはありませんから、為政者にとっては脅威となります。〕(相手が為政者ならまだいいのだが……)

〔誤解を恐れずに言うならば、一つの教えを無条件に信じて狂信的にならなければ、本当に救われるはずなどないのです。信仰とはそういうものです。極楽浄土を本気で信じて一向一揆の中で死んでいった人を、今の私たちは不幸ととらえがちですが、実は本人たちは幸せだったのではないでしょうか。亡くなって本当に極楽に行けたかどうかはわかりませんが、少なくとも「自分は幸せだ」と感じながら死んでいった人も多かったと思います。〕(「本気で」と言っても、それは切羽詰まった時の賭けにすぎまい。深信ではない、というよりそもそも「信仰」なのか?)

〔その教えを信じて幸せになる人がいる限り、どんな教えであろうとも間違ってはいないと考えるべきなのです。〕(幸せとか、間違っている、いない……そう表現するのは可能だが、ピントがずれていないか?)
【終わり】

皆さんどうでしょう?
当時の民衆は圧政で生活が苦しくて「悟り」どころではなく、まず楽になること、「救い」を求めていたことはわかります。
でもそれは、あくまで「力」に対する「力」、拠り所を見つけてしがみ付いているにすぎません。
今の厳しい日本社会と同じく、大きな組織にしがみ付いて思考の「楽」を得ているだけです。
もちろん、それそのものが害悪だというわけではありません。
健全な思考を得るには、ある程度の安泰は必要です。
でも、その先はどうなのでしょうか?
その上で、人生の意味を考えて、「よく生きること」を実践するでしょうか?
宗教というものは、「救い」で終わってしまっては、まったく意味がないと私は思います。
そればかりか、「考えない」(思考停止)癖がついてしまって、かえって「進化」を阻むとさえ思われるのです。
「救い」は楽を伴いますが「悟り」はけっして楽ではありません。

かなり昔に友人から、ある哲学者の言葉を紹介されたことがあります。
「悟った人の行動は、見かけ上は素朴な人と同じだが、そうなるまでの過程が違う」
つまり、ただ言われて「考えなくなる」のではなく、自分の修行によって「考えなくなる」のが道なのです。
親鸞聖人の「計らいなき計らい」であり、後者の「計らい」が自分の修行に当たります。

私の周りにいる盲信者たちは、楽になることを「幸せ」と思って、楽ではない人間の活動では「幸せになれない」と言います。
彼らに対しては、「苦しみが熟して幸せになる」と返すのですが、なにぶん「考えないこと」を良しとして外から与えられているので、理解できません。
つまり、盲信者たちは、「悟り」へ向かう人たちに対する「理解」が永遠に欠如してしまうのです。(「戒禁取」が克服できない)

著者の佐々木先生には申し訳ないのですが、私はあくまで宗教を「道」だととらえているのです。
新たな啓示でもあるスピリチュアリズムと融合して、本来の聖人の教えを取り戻す必要があると思います。


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運命学は思い込みか? [霊的存在]

先日、TVを見ていて、何気なく放送大学に回したら、「錯覚の科学」という心理学の講座をやっていて、つい見入ってしまいました。
その回はちょうど、根拠のないものに対する「思い込み」を取り上げていました。
大まかに要点だけ言います。
まず「血液型と性格」については完全に「思い込み」だと断言していました。
「一つの観点から言い通せてしまう」ということによる論理の使い方の間違いを言っていました。
(統計的な事実を理由に法則化するのは、そういう前提で物事を偏見で見ることになるだけであり、法則に反する事実は例外として片づける)
まあ、それに関してはともあれ理解はできます。(経験的には納得できませんが)
その他、占星術や易占などの占いも然り。
ただ、(強い意味の)「否定」はしていませんでした。
また、フォローと言っていいか、そもそも私たちの生活が「思い込み」で成り立っているということを添えていました。
以前にも言ったように、錯視というのは間違いというよりは、私たちが3次元空間で生活していて直観的には3次元しか見ることができないということを表しています。
(絵画は錯視で成り立っています)

でもどうでしょう?
みなさんは、非科学的なものはみな「思い込み」だと本当に思いますか?
もしそうなら、それこそ「思い込み」なのではないでしょうか?
それから、「思い込みで成り立っているから仕方ない」という許容だけで済まされるのでしょうか?
なぜなら、科学者は非科学的なことを否定する根拠もないからです。

科学者にとっては、物理学的あるいは生理学的に(今の時点で)根拠がないものは単に「ナンセンス」なだけなのです。
「そこからは何も言えない」
ということでしょう。
(特にプロの学者はそうではないと思っても口に出せないのです。数年前、2年間隣に座っていた同僚の物理学博士がその典型でした)

厄介なのは、科学者気取りでいる人たちです。
全員ではありませんが、「ナンセンス」を「否定」にすり替えてしまうのです。
宗教団体の盲信者が、ある事柄を教義や聖典に無いからと言って否定し、教義や聖典にある他の宗教を非難するのと同じで、科学者気取りでいるうちのその手の人は、言わば「科学盲信者」です。
占星術などの運命学に関して、キリスト教の教会では「オカルト」として排除しているようですが、それは科学的根拠がないからではなく、宗教は運命学を超越しているからであって、そういうもの(眷属や非高級霊を介すること)は不要だからです。
いかなる試練も乗り越えればいいのですから。
仏教でも、吉凶を占うのは仏法にはなく、超越するものです。
もちろん、原理主義の盲信者は「無い」からと言って、「否定」してお終いです。

よく振り返って考えてみてほしいのです。
私たちはあくまで実生活において「当てになるかならないか」で行動を決めているわけであって、科学的根拠など本当は求めていないはずです。
突き詰めてみれば、現代社会を席巻する自然科学信仰も、「当てになる」から広まっているのですから。
運命学は私自身も活用していますが、それは割りと当てになるからです。
みなさんはどうでしょうか?
科学的根拠がないからと言って無視するでしょうか?
それとも、みなさんはインドの修行者のように、(霊的進化を促すからといって)進んで、
「私に苦しみをお与えください」
と天に願うでしょうか?
おそらくその気にはなれないでしょう。
私もそうです。

運命学について決定的なことを言いますと、エドガー・ケーシーのリーディングに、
「いちばん当てになるのはペルシャ占星術である」
「しかし、あくまで傾向にすぎない」
「あまり意識すると、星に支配されてしまう」
とあり、これがすべてを言い尽くしているように思います。
(以前にも取り上げたかどうかは?)
(私は権威に頼るのは好きではありませんが、参考のために)

運命学は、あくまで「難を逃れ、ささやかな社会的成功を実現するため」にあります。
再三言うように、私は霊的には「ローギヤで坂道を上る」ことと解釈しています。
ともあれ、まったく当てにならないものではなさそうです。
ただし、他にもいろいろな観点があるので、「傾向」でとどめるべきでしょう。
「思い込み」に関しては、それを省察するだけでよいと思います。
「星に支配されてしまう」というのは、一つの観点から判断して行動を決めてしまうと、身動きが取れなくなるということ、省察しないことによって思考や行動が「思い込み」に支配されることを言っているのだと思います。(覚えがありませんか?)
世間で言う、「心がけ程度でいい」というのはこういう理由からでしょう。

私が今回なぜまたこのようなことを取り上げたのかと言いますと、新約聖書のマタイによる福音書にある「東方三博士の礼拝」が数年前から気になっていたからです。
もちろん中学生の頃から、ルネッサンスの画家たちの絵でよく知っていましたが、その頃は東方三博士またはマギというのが何のことか気にも留めませんでした。
それがかなり後になって、「占星術師」あるいは「天文学者」のことだとわかりました。
もっとも当時の天文学は科学的根拠に乏しいでしょうから、ほとんど経験による暦や伝統的な運命学でしょう。
それなのに、オカルトを排するキリスト教がイエス生誕と占星術を結び付けているという点が不思議で、いろいろと調べてみたのです。
大まかに言うと、博士たちが西の空にひときわ輝く星が現れたのを見て、ユダヤの王の誕生を知り、礼拝に行くという話ですが、その星は「ベツレヘムの星」と呼ばれ、その正体を巡って様々な説が飛び交ったようです。
ハレー彗星、超新星、流星、水星と木星と金星の合体、等々。
何れも決定力に欠け、中には、博士たちにしか見えなかったとか、記述者の創作だという説もあるようです。
そこでスピリチュアルのメスを入れます。
エドガー・ケーシーのリーディングでは、このベツレヘムの星の正体は「アルクトゥルス」だということです。
別名「うしかい座α星」、地球から36.66光年の恒星で、スピリチュアルで言えば6次元という高い波動に存在し、地球人が転生を繰り返しすべての経験を終えた後に転生する星だといわれます。
イエスがその一人だとすればひとまず説明は付きます。
思うに、博士たちは今でいうスピリチュアリストだったのでしょう。


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シンクロニシティ [霊的存在]

3月に入って、私はまた例年のごとく身の振り方を考えなければならなくなり、身も心も落ち着かない日々を過ごしていました。

昨年11月から産休講師として勤めていた学校は、暮に、「4月からの継続なし」の通告を受けました。
まあ産休代替だから当然だと思いました。
直後にいくつかの求人に応募したのですが、年が明けて最初の出勤の日の朝、事務室の出勤簿を開くと、校長からの呼び出しの付箋が貼ってありました。
授業終了後に校長室に行くと、まず、中2の授業評価の低いことを指摘され(おそらくそれが継続なしの一つの理由なのでしょう)、すぐあとに、高校の授業評価が意外と高いことを言われ、それを理由にするかのように、
「来年度、高校だけ10時間以上(+2,3時間)持ってもらう予定です」
と言われました。
私はひとまず安心しました。
というのも、「ここは遠いから他を探そう」とか思っていくら応募しても、昨年の例のようにこの時期は面接にすらいけないのが現状です。
事実、暮に応募した所は全滅でした。
当然のごとく私は、
「ここの高校生は人間的には良いから、まあいいか」
と合理化を図って、この2か月を文化的に過ごしました。

ところが、今月の頭に校長から自宅に電話があり、
「(入試の結果)高入生が思うように集まらなくて、先生には申し訳ないけど、6時間だけになったんです。こういうのは早く言ったほうがいいと思ってね」
私は、そういうのは慣れっこなので、大してショックもなく、
「はい、解りました。いただけるだけで結構です」
とだけ答えて、すぐに次の行動にかかりました。
とはいうものの、やはり不安です。
いっそのこと台湾やマレーシアに行ってしまおうかなどと考えましたが、母親のこともあり、なんとか口を見つけて凌ぐことにしました。

公募の中で真っ先に目に入った都内の学校(S校)は、だいぶ前の求人のため締め切りまで1日で、専用履歴書に「私学適性検査」の欄があるので、どうせ駄目だと思って見送り、代わりに自宅から近い千葉県の学校に電話で応募(後に面接の日を知らされそのときに履歴書を持参)しました。
ところが、一度消えたS校の求人が数日後に今度は教員の口を紹介する(知らされるだけ)会社からのメールで届き、早速履歴書を書いて郵送。
急いでいると見え、すぐに電話があり、模擬授業の内容をメールで送られ、私は4日後の面接に備えました。
満を持して、当日、得意(?)の模擬授業で圧倒して、直後の面接ではテンション高く洗いざらい事実をぶちまけました。
「結果は1週間以内に」
と言われたので、
「えっ? 遅いよ。3日後にもう一つがあるけど、こっち優先だから」
「ああ、もしかしたらダメなのかな?」
などと思い巡らせ、退室した時に、誘導してくれた教頭(?)に、
「1週間ですか?」
ともう一度聞きました。
すると、
「いや、実際には2,3日です」
と返ってきました。
私は厚かましくも、
「他があるのでなるべく早くお願いします」
と言ってしまい、どうやらプレッシャーをかけてしまう形になりました。

私は感触がイマイチだったので、そのままどこにも寄らずにまっすぐ帰宅しました。
しばらく自宅で過ごし、派遣会社の人に報告してあらかじめ用意してもらった派遣の6時間の話をしようと思ったのですが、担当者が不在のためもう一度電話してまた不在。
「おかしいな」
「もしかして居留守?」(話をするのが気まずいときにはよくあります)
そして3度目の電話をしようと思った矢先、S校から電話があり、採用決定。
直後に派遣会社に電話したら、なぜかすんなり担当者に繋がり、予定していた面倒くさい話を一切せずに済んで、採用決定というまったく違う話をしてすべてが解決。
すぐにもう一つの千葉県の学校に3日後の面接のキャンセルを報告しました。
まだ昼前だったので、母親と外で食事をしてからすぐ今勤めている学校に直行し、(学校の都合も考えて)校長に報告し、夕方予定していた数学の先生方のお別れ会(辞める別の先生のための)に合流しました。
結局私のお別れ会にもなってしまいました。
それからまた、次の日の夜は友人たちとの食事会が予定されていて、それがそのまま私の仕事決定の祝賀会に変わったわけです。

ほんの短い間に展開が変わり、あっという間に片付いて終了。
なにかこれは周囲の出来事がすべて繋がっていて、動いているというか動かされているような気がしてなりません。
俗に言う「シンクロニシティ(共時性)」でしょうか。

実は12年前にも同じようなことがありました。
はっきり覚えていて、3月5日の午前に、決まっていた学校の非常勤のコマ数が10時間に減るという教頭からの電話があり、困っていたところ、直後に私学協会の名簿を見た別の学校から、
「履歴書を持参して今日の午後2時に来てください」
との電話があって、慌てて履歴書を書いて面接に行って即決定。
(+12時間の掛け持ち。それ以外にどこもありません)
この時期はどこの学校も、人員の決定を行っているので不思議ではないかもしれませんが、そのときも時間や条件があまりにも一致していて、とても偶然とは思えませんでした。

と、ここまでは、私が大変な目に遭いながらも、それを目に見えない力によって助けられたというスピリチュアル的にきれいな話ですが、もしかすると今回このようなことを招いたのは私自身かもしれません。
実を言うと、校長から授業数削減の通告を受ける2日前に、あるキリスト教系の優秀な学校に履歴書を送った(2日前にポストに入れた)のです。
もしかして、受け取った学校の人がこちらの校長に通報したのではないか、それで校長も気を悪くして私に辞めてくれと言わんばかりの措置を下したのではないか、と疑いました。
もっともそれは私もある程度予測していて、承知で書類を送ったのですが。
皆さんは、
「それなら、履歴書の職歴に今の学校を書かなければいいではないか?」
と思われるかもしれません。
もちろん私もそれは考えました。
しかし、私はスピリチュアリズムに生きる「道の人」です。
それはできません。
つい数日前に、高1の授業で、生徒が私の誠実さを疑ったときに、
「オレは、嘘はつかないんだ。良い嘘ならともかく、エゴのために嘘をつくと魂に傷がつくから(霊的不正だから)絶対しない。」
と、言い切ったばかりなのです。

結局キリスト教系の学校からは2週間経って「書類落ち」の知らせが届きました。
採用する気がないのに告げ口?
私も疑り深くなったものです。
「それじゃ、校長やその学校の人に失礼だろ!」
「道の人なら、もっと周りの人の誠実さを認めろ!」
と叱られそうですね。
まあ、真相はわかりません。
もし、本当に通報などなしに公正な理由で授業数削減の通告があったとすれば、これもまた、私が能動的に行動したことによるシンクロニシティだといえます。
今回のこと以外でも、何か具体的な行動を起こすと、予期せぬところから連絡があったり、何らか結果がついてくるという経験をよくします。
「自分の意識が周りの現象に反映される」
「自分の思考が現実を作っている」
というのは本当なのでしょう。
人間はバラバラではなく常に連動しているのだとつくづく感じます。

何はともあれ来月から私はまた新しい環境の下で大変なことになりそうです。
1年後どうなるかわかりませんが、関わる人たちに感謝しながら、目の前の課題を一つ一つ熟すだけです。


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銃には銃 [中庸]

アメリカの高校での銃乱射事件を契機に、国民が銃規制を訴えているようです。
それに対し、トランプ大統領は、
「教師たちが銃を持てばいい」
と、相変らず「銃には銃」を唱えています。
たしかにどんな国でもどんなに平穏な社会であっても、面白がって迷惑をかける奴や個人の腹癒せで無差別殺人をする奴は必ず現れます。
また、相手に力(権力)がないとわかると、それに付け込んで、周囲への影響を顧みず徹底的に圧力をかける「生まれながら好戦的な輩」が確実にいます。
近頃、第二次大戦のある体験者が「戦争をしたい奴などいない」というのは大嘘だと証言しています。
それだけを考えれば、たしかに、銃から身を守ることができるのは銃だけだと言えます。

ともあれ人々が平穏に暮らせるように、さらには、私流に言えば「人々が考える余裕を持つことができるように」、そういう『地球の失敗作』を駆逐して秩序を保つのは当然のことでしょう。
でもそれだけでしょうか?
だいいち、それで平和と言えるのでしょうか?
テレビ番組でも言っているように、「核には核」と同じで、なにか単純な気がします。
発想が極めて「地上的」です。

トランプ氏に関しては、以上のような理由から、一見スピリチュアリズム的に「所詮下から2番目の流刑者の星だから」と覚って、地球の平和を諦めているようにも思えますが、実のところ、単純に、国がライフル協会と癒着していて判断を下せないという事情があるようです。
それならばと、各団体がライフル協会から手を引くことで銃規制に持っていこうとしているようです。
いずれにせよ、国家に絶対的な権力がない限り、これぐらいのことしかできません。
また、銃規制もやはり「規制」でしかありませんから、「力には力」という地上的措置にすぎません。
では、それが実現できたとして、どうなるのでしょうか?
安全の中で個人的な物質的生活を営んで、広い意味での社会的成功を収めて、快楽を享受して、それで終わりでしょうか?
「こんな思いをしてやっとこれだけ?」
「それならなんでわざわざ生まれてきたの?」
などと思わないでしょうか?

そういえば、「力には力」ということを、エホバの証人の小母さんが言っていたのを思い出しました。
唯物論撲滅には、集団とか団体とか組織といった「力」しかないと言いたいのでしょう。
幸福の科学にもそういう要素があります。
まあ、そうかもしれません。
個人がいくら正しいことを熱く説法しても、筋金入りの唯物論者は聞く耳を持ちません。
その手の人たちには権威や権力がものをいいます。
でもやはり地上的です。
力によって宗教的行動をさせてもそれだけでは本物ではありません。
地に足がつかず、盲信に走るだけだからです。
もちろん、宗教における地上的力は「切っ掛け」をつかませるための方便とはなり得ますが、私の経験では、宗教団体のほとんどが頭ごなしに「愛」を説いているだけです。
宗教に携る人たちがそんな調子では、平和は遠いと言わざるを得ません。

本物の宗教心とか菩提心は、唯物論を外からの力で抑えたり砕いたりして得られるもではなく、自らの溶解液によって溶かすことによって得られるものだからです。
ヤッツケルのではなく、克服することです。
消すのではなく、超越することです。
それには私が再三言う「中庸」などの実践(活動)が伴うのですが・・・

そもそも人生とは何か、社会とは何か、国家とは何かを考える時が来ているということです。
一人ひとりが銃を持つ前に考えることです。



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幸福の科学について(3) [中庸]

このところ私は他のことで頭も体もいっぱいで、肝心なスピリチュアルな活動がおろそかになっていることは確かです。
もちろんそれは、かなり少数派でありあまりにも世間から理解されないため、失望しかけているというのもあります。
それに比べると、いつも引き合いに出す宗教団体の人たちはめげることなくよくやっていると感心(?)します。
皮肉なことに今の私にとっては、彼らに対して真摯に向き合ってコメントすることが唯一手応えのある行動となっているわけです。
今回も自分に対する刺激として、幸福の科学の例の女性から随分前に頂いた『信仰の法』なる本をパラパラとめくって斜め読みしました。

皆さんはもう、私が何を言おうとしているか、だいたい察しがつくと思います。
はっきり言えば、霊的自覚を促すという点では賛同するものの、その方法としては相容れません。
やはりと言っては失礼ですが、未だに「超常現象」による騙しの域を超えず、「道」を行く切っ掛けを与えてはいないからです。
つまり、唯物論撲滅の活動はしてはいますが、盲信排除にはなっていないということです。
(むしろ盲信を促していると言ってもいいくらいです)

ともあれ賛同する点としては、「『進化論』」は仮説であって真実ではない」という箇所で、

【学校教育の影響もあるのでしょうが、多くの人たちは、「アメーバが人間の先祖であり、そこから進化して人間になった」と考えています。…(中略)…このような、あまりにも論理が飛躍した仮説に飛びつき、考えることを停止した人間を大量につくった国家には、それなりの困難が必ずやってくるはずです。したがって、私たちはそうした国家に立ち向かってくる困難と戦わなければなりません。自分自身の存在根拠を否定し、尊厳を否定した者に、繁栄した未来が来ることを期待するのはおかしいと思います。】

とあることです。
これは、「肉体としての生物の進化によって人間の知性や霊が偶然生まれた」ということに対する批判です。
もっともこれに関しては、どの宗教家も同様に指摘していますが。
宇宙物理学者も「地球外生命」を探すときに、未だに地球と似たような条件の天体に専ら関心を抱くようです。(以前も言いましたが、プロの研究者の制約もあると思います)
しかし、スピリチュアリズムでは、人間の肉体は借り物であり、「人間=人類」ではないのです。
人間の霊は初めからあります。
また、人間に限らず、鉱物も植物もそれなりの霊があってはじめて物質化して活動します。

賛同しない点は、やはり、「イエスの磔刑」の解釈です。

【キリスト教で言うならば、キリスト教は、異教徒の人々から、「自らを救えなかった人間が救世主であることはあり得ない」という批判を受けることがあります。当時、十字架に架かったイエスは人々から嘲笑われました。「ユダヤの王」と札に書かれ、王冠の代わりに茨の冠をかぶせられて、「本当にユダヤの王で救世主であるなら、自分を救ってみよ」という、挑発的で侮辱的な言葉を数多く投げかけられました。しかし、イエスは、現実には、釘で打ち付けられた十字架から逃れ、何かを起こしたわけではありません。実は、そのあとの霊的な復活を通して、人々に魂の永遠性を信じさせたのであり、また、霊的な目覚めを得た弟子たちの前にその姿を現すことによって、真実の世界のあり方と、自分が永遠不滅の存在であることを説いたのです。…(中略)…私が説いている教えの中にある普遍的なるものを、同時代において、同時期において、つかみ取ることができるならば、その人は相当優れた人だろうと思います。しかし現実には、なかなかそうはいかないものなのです。】

まず、「救う」とか「救われる」というのを、「肉体の保持」という意味にしてしまっていることから、当時の民衆の意識の低さが窺えます。(今もそうかも)
それに対して教会側も、後にイエスの磔刑を「身代わり」というように、これまた肉体的唯物論的に取り繕っています。
救うとか救われるというのは、自己保身が動機で地を這うような生き方すなわち「地上の住人」から、エゴを克服し自己保身を超越する(消すわけではない)生き方すなわち「地上の旅人」に引き上げることを言うのです。
イエスの肉体の死を以って他の人たちのエゴが克服されるわけがありません。
イエスは逃れようと思えば逃れられたのですが、それをすれば、自己保身で動いたことになり、エゴを乗り越えたことにはなりません。
自己保身を煽るという権力者の手に乗らずに信念を通したまでです。
それが聖人の聖人たる所以です。
もっとも、イエス本人は純粋に行動しただけでしょうが、それが霊的に生きる人の手本となったわけです。
(私も磔刑ほどではありませんが、かつて幾度か純粋な行動によって、権力者から処分を受けました)
それから、復活という超常現象で驚嘆させるというのは、低級霊が狂信者を騙して面白がる時によくやる手であって、イエスの肉体を借りた高級霊がやるわけがありません。
出来てもやりません。
なぜなら本物ではないからです。
盲信を促すだけで、道を示さないからです。
もしそんなことで人々の霊性を高めることができるのなら、今でもしょっちゅう復活して人々の前に現れればいいはずです。
ならば、大川氏の説く「普遍性」とは、如何なるものなのでしょうか?

この本の最後の方に、「地球神エル・カンターレからのメッセージ」として、こう記されています。

【今、私は、あなた方に言う。キリスト教に言う「主なる神」。ユダヤ教に言う「エローヒム」。イスラム教に言う「アッラー」。中国の孔子が言う「天帝」。さらには、日本神道ではその姿も知られていないが、中心神である天御中主神の上にいる「天御祖神」。すべては同じ存在であり、一人なのです。以下略】

まったくそのとおりなのですが、残念ながら、盲信者や狂信者に対して何ら説得力がありません。
つまり、このメッセージによって人々は何も変わらないのです。
末端の表現に囚われるのは人間の常ですが、省察によって解除する(戒禁取を消す)ことができるはずです。
なのにその具体的な実践法が示されていません。
せめて、
【「アッラー」であるから「エローヒム」ではない、と言うのは、「▲」だから「●」ではないと言っているのと同じだ。】
と言ってほしいものです。

我累了。


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